bowie_young american
ハハン、おそらくきっとそういうコトだったんだな 長年の疑問…、というほど大層なモノではないけれど、どうも今まで腑に落ちてなかったコトが、これでようやく納得できた。イヤ、気づく人は多分とっくの昔に気づいていたんだろう。でもいくつか持っているCDの解説にも、周辺文献にも、そういう指摘は見当たらない。でももう自分の中では、すっかり確信に変わっている。つまり…

デヴィッド・ボウイの75年作『YOUNG AMERICANS』の元ネタ、発想の源は、実はアヴェレイジ・ホワイト・バンドの出現ではなかったか?というコトだ。今回A.W.B.のライナーをまとめて書いていて、その時代的背景を調べつつ、購入したまま山積みになっていたボウイのオールタイム・ベスト3枚組『NOTHING HAS CHANGED』を聴いて、ふと思い当たった。『YOUNG AMERICANS』のレコーディングのスタートが、74年8月。その後ツアーを挟み、74年暮れからセッションが本格化している。AWBのホワイト・アルバムは、まさに74年8月の発売。<Pick Up The Pieces>や<Work To Do>は年末にはディスコ・チャートのトップ10に入り、翌年2月に<Pick Up The Pieces>が全米トップへ躍り出た。タイミングはバッチリである。

ボウイのソウル好きはそれ以前から指摘されるところで、73〜74年にはアイザック・ヘイズやバリー・ホワイトに心酔し、そこからフィラデルフィア・ソウルへの傾倒が始まった。74年には実際に米国に住まいを移し、アポロ・シアターに足繁く通っていたらしい。スタジオ前作『DIAMOND DOGS』にもソウルっぽいところがあったし、その後のライヴ盤『DAVID LIVE』はフィラデルフィア録音。そしてシングル曲には、エディ・フロイド<Knock On Wood>のカヴァーが選ばれた。

当然彼の脳裏には、どんどん大きくなっていくディスコ・マーケットへの意識があっただろう。しかしロックをコンセプチャルに歌ってきたボウイが、そのままディスコ・サウンドを演るワケにはいかない。かといって、正面切ってソウルを歌えるほどのヴォーカル・スキルや声量は持ち合わせちゃいなかった。だから、方向性は朧げに見えながらも、具体策を欠いていたのではないか。フィリーの名門シグマ・サウンドで録音しながら、一方で現地ミュージシャンは呼ばず、ボウイが自分でニューヨーク系のミュージシャンを連れてきたのも、黒人音楽をそのままやるのは自分らしくないと思っていた証し。そこにA.W.B.が登場した。

極めつけは、75年1月に実現したジョン・レノンとのニューヨーク・セッションである。元々レコーディングを想定したのものではなく、ちょっとした即興が始まりだったらしいが、ちょうどジョンが『ROCK 'N' ROLL』を作っていたため、ちょくちょく行き来するようになったそうだ。そしてそこから<Across The Universe>のカヴァーと、ボウイ初の全米No.1ヒット<Fame>が生まれた。

実はジョンは前年、ニルソンと共にL.A.で催されたあるパーティーを訪れ、そこでクローヴァー・セッションのためにL.A.滞在中のA.W.B.と邂逅している。この時はジム・ケルトナーやダニー・クーチ(つまりはアティチューズ!)、リトル・フィートやルーファスのメンバーらがいて、<Stand By Me>を45分近くジャムったそう。そう考えると、この周辺の連中のファンク指向が、ジョンを通じてボウイに注入されたとしても不思議じゃない。ギターのリフを中心に組み立てた<Fame>のビートのキレは、フィリー・ソウルというよりも、ダイレクトにAWB<Pick Up The Pieces>のノリに繋がる。<Fame>の全米制覇は、<Pick Up The Pieces>のそれから約7ヶ月後のことだ。

ボウイが果たしていつ頃からA.W.B.を意識し始めたか。その辺りは皆目分からないけれど、早くからリンダ・ルイスをバック・ヴォーカルに使った人であるから、ロンドンのパブ・サーキットにはそれなりに明るかったはず。今までルーサー・ヴァンドロスやデヴィッド・サンボーンの参加にばかり目が行ってたけれど、この『YOUNG AMERICANS』には、実はそんな深いネタも潜んでいた。プラスティック・ソウルと平均的白人バンド、何となくシニカルなところも、さすが英国勢といったところか。

まぁ、もし当方の勝手な妄想、勘違いだったら、微熱状態から発せられた戯言としてお許しを。逆に新説だったら、たまには熱も出してみるモンですな、ということで…