walter becker
ちょいとご無沙汰です。とにかく締切テンコ盛りで、ブログにまで手が回らない日々。紹介したい作品や書いておきたいライヴ・レポートなどが山積するも、放置せざるを得ない近況であります。ところがそんな中、どうにも触れざるを得ない悲しいニュースが。…というより、自分の胸の内を一度整理しておかないと、他の書き物に真っ直ぐ立ち向かえない感じがして。それが3日夜(日本時間)に飛び込んできた、ウォルター・ベッカーの訃報だった。

時間は21:30過ぎ。たまたま facebook を開けっぱなしにして仕事をしていたので、情報入手は早かった。日本の主要メディア、音楽関係者はその時点で何処も速報を出しておらず、関係者のコメントもない。ただオフィシャル・サイトが “ walter becker feb.20 1950 - sept.03 2017” と記載しているだけだった。だからデマ説、誤報説に加え、ハッカーによるサイト乗っ取り説まで飛び出すことに。日本のネット系音楽メディアでも、訃報を流した後、デマの可能性アリと情報修正するなど右往左往が目立った。それでも2時間もすると、デマ説が修正され、程なくしてドナルド・フェイゲンのコメントが…。それでようやくベッカー逝去が事実であると認識された。

その過程で知ったのが、新生イーグルスやフリートウッド・マック、アース・ウインド&ファイアー、ドゥービー・ブラザーズ、ジャーニーらが出演した7月の一大ライヴ・イベント:The Classic (East / West )にスティーリー・ダンが出演した際、ベッカー自身は出演をキャンセルして、ハワイのマウイ島にある自宅で静養していたこと。未だ死因は伝えられていないが、それほど体調が良くなかったことになる。

それにしても日本では、相方ドナルド・フェイゲンが若いメンバーから成るザ・ナイトフライヤーズを引き連れて来日する間際というタイミング。本屋の音楽書籍のコーナーでは、何処へ行ってもスティーリー・ダンやフェイゲン関係の本が陳列されている。それに何も訃報で対抗することはないだろうに、ウォルターさん…

振り返ってみれば、初めて聴いたスティーリー・ダンは『PRITZEL LOGIC』。74年当時は『さわやか革命』という邦題がついていて、中学生だった自分には何とも不可解なアルバムだった。そこからはアルバム毎に聴いていったが、即座にスゴイ!と思ったのは、やはり『AJA』。当時は理解不能だったけれど、完成度の高さ、精密機械のようなクオリティは、高校生の自分にも直ぐ分かった。

逆に最初は「何だろな、コレは?」と思ったのが、94年に発表されたベッカーの初ソロ作『11 TRACKS OF WHACK(11の心象)』である。でも今ならそのアルバムの意味が分かるし、スティーリー・ダンに於けるベッカーの役割、存在価値も理解できる。確かにデュオの骨格部分はフェイゲンに依るところが大きいが、演奏や作編面での「らしさ」を演出していたのは、むしろベッカーだったのではないか。フェイゲンのソロに毒気が薄いのは、ベッカーが不在(居てもサポート)だから。反対にベッカーのソロだと、スティーリー・ダン以外の何モノでもないのに芯が細いように感じでしまう。それもやはりフェイゲンがいないから。敢えてグループ内の立ち位置を説明するなら、フェイゲンはメロディメイカーでありシンガー・ソングライター。一方ベッカーはサウンド・クリエイター寄りで、フェイゲンの楽曲に彩りを加えていく。そんな関係性だったのではないだろうか。

そのスティーリー・ダンの最大の功績といえば、ポップスやロックに於けるバンド概念を破壊したことだと言える。5人組グループとしてデビューしたスティーリー・ダンだったが、そもそもがベッカー&フェイゲンの風変わりな楽曲を世に出すため、レコード会社の専属プロデューサーだったゲイリー・カッツによって意図的に組まれたバンドだった。そこにグループとしての一体感は乏しく、ウッドストック世代のロック幻想、共同体意識は端から存在していない。事実デビュー作の時点で、早くもエリオット・ランドールらセッション・ミュージシャンが参加していて、3作目『PRITZEL LOGIC』あたりから一気に表面化する。ライヴ志向の強いジェフ・バクスターがドゥービーへ移籍していった時点で、事実上バンドとしてのスティーリー・ダンは瓦解していた。

しかしジャズでは当たり前のワークショップ形式は、まだロック・シーンには馴染みが薄かった。人気バンドからギタリストが抜ければ、直ぐ「後任は誰?」と騒がれる。4作目『KATY LIED』の裏ジャケにマイケル・マクドナルドやジェフ・ポーカロといったサポート・メンバー、エンジニアのロジャー・ニコルスまで動員してバンドっぽい体裁を取り繕ったのは、そうした面倒を避けるためだった。と同時に、70年代後半に巷で顕著になってくるスタジオ・ミュージシャン信奉傾向には、間違いなくスティーリー・ダンが大きく寄与している。

グループとしての来日は計4回。カナザワはその都度1度はライヴに足を運び、代々木第一競技場(94年)、武道館(96年)、東京国際フォーラム(00年)で彼らを見た後、Billboard Live TOKYOの杮落とし(07年)が生で観たベッカー最後の姿になった。ただしベッカー急逝に手向けたフェイゲンの言葉には、スティーリー・ダンをライヴ・バンドとして続けていく意図が読み取れる。きっとそれが、2人が描いていた近未来のあり方なのだろう。

「私は我々が一緒に作り出した音楽を、私ができる限り、スティーリー・ダン・バンドと一緒に生き続けるようにしておくつもりです」(ドナルド・フェイゲン)

でもいずれにしても、享年67歳は若すぎるよ…

Rest in Peace...。そしてありがとう。