hideki saijyo

午後一番で飛び込んできたのは、皆さん既にご存知であろう、西城秀樹の訃報。2度の脳梗塞から生還し、懸命のリハビリで 歌手活動を再開。呂律も四肢の動きもおぼつかない中でステージに立つ姿は痛々しく、何故にそこまで…、と思っていたが、「同じ病気の人たちに勇気を与えるためにも、今の自分をありのまま見せて」という強い気持ちがあったそうだ。人気商売の方々は、 “良いメージのまま消えていこう” とするのが常だけど、人に見られる立場だからこそ ありのままの自分を、と考えて実践していくのは、並大抵の勇気ではない。若い頃のワイルドな印象は、そのまま彼の生き様だった。

ニュースで訃報を知って真っ先に思い出した顔は、ホンの2日前に会ったばかりの芳野藤丸さんとマネージャーの天下井氏。よく知られているように、藤丸さんはヒデキ全盛期のバック・バンドのギタリスト。天下井さんはヒデキの当時のマネージャーで、かの<ヤング・マン>の訳詞も実は天下井さんのペンだ。今頃、相当にショックを受けてらっしゃるだろうなぁ…と

かくいうカナザワも、ビートルズで洋楽に目覚める直前、1年ほど歌謡曲ばかり聴いていた時期があった。何せハジレコ(初めて自分で買ったレコード)は、浅田美代子<赤い風船>だからね。ヒデキを初めて知ったのは、72年の3枚目のシングル<チャンスは一度>。レコード買ったのは翌年の「情熱の嵐」で、聴きながらシャツを振り回し、小躍りしてた。そこから「傷だらけのローラ」までは全部シングルを買ってて、「愛の十字架」が出た時には、自分でもちっちゃなロザリオなんかしてましたね、中坊のクセに。新御三家で一番好きだったのもヒデキ。郷ひろみや野口五郎と違って、男が憧れるカッコ良さがヒデキにはあった。そういえば藤丸さんも、最初に誘われた時は、「エーッ、アイドルでしょ?」と二の足を踏んだらしいが、実際にライヴを観て「ヘタなロック・バンドよりよっぽどロックしてる!」と驚き、バックを引き受けたそう。後々 内田裕也に認められるのも、ヒデキのマインドが本物だったからだ。

また彼は、ゲイのディスコ・バンド:ヴィレッジ・ピープルが歌っていた<ヤング・マン>を筆頭に、スティーヴィー・ワンダー<愛の園>、ワム<抱きしめてジルバ(Careless Whisper)>、グラハム・ボネット<ナイト・ゲーム>など、多くの洋楽カヴァー曲をシングルにしている。しかもライヴのレパートリーには、AORファンにお馴染み:トニー・シュート<アイランド・ナイト>を歌っていたり、何とキング・クリムゾン<エピタフ>に挑戦していたり。まぁ、ザ・ピーナッツだってユーライア・ヒープを歌ってた時代なので、歌謡曲にロックを持ち込んだ、なんて今の評価には疑問があるが、ワケも分からず言われるままに歌っていたのではなく、彼自身がロック好きで、シッカリと魂込めて歌っていたのは確か。バニー・マニロウとデュエットしたり、ジョージ・デュークのプロデュースを受けたりもしていたな。

そういえば、『8時だよ 全員集合』だったと思うが、ヒデキと加藤茶、細川たかしの3人がドラム合戦を繰り広げたことがあった。一番上手かったのは、意外にも細川たかし。ぶっちゃけヒデキが一番ヘタで格好だけだったけど、本当に楽しそうにしていたのを覚えている。ちなみに細川は、若い頃、歌手になってなければビッグ・バンドのドラマーになっていたかも、というくらい本格的にドラムを叩いていたそうだ。

洋楽にハマってからはスッカリ歌謡曲を聴かなくなってしまったカナザワだが、次にちゃんとヒデキを聴いたのは、角松がプロデュースした<Beat Street>で。このベスト盤のCDも、その曲を銀盤で持っていたくて買ったのだ、確か。

…というワケで、ちょっと胸がキュンとなってしまった西城秀樹の訃報。このベスト盤のブックレットに掲載されたインタビューの中で、33歳になってフレオ・イグレシアスが書いた<33歳>で “人生半分” と歌い、「オレ、66歳で死ぬのかよ?」と思った、なんて語っているが、何と66歳ところか3年早く逝ってしまった。63歳といったら、カナザワだってあと数年。別に、長生きしたいとは思わないけど、やりたいこと、やるべきことは まだまだたくさんあります

Rest in Peace...