queen_the game

後輩の女性編集者に頼まれ、地方新聞の情報誌向けにクイーンの記事、コメントを寄稿。それでこの80年作『THE GAME』を聴きながら、彼らのことを考えてみた。ご存知のようにこのアルバムは、<Another One Bites The Dust(地獄へ道づれ)>や<Crazy Little Things Called Love(愛と言う名の欲望)>といった新定番曲を生み出す一方で、それまでの王道バラードも収録した通算8作目。過渡期らしいアルバムで、作品としてのバランス感は良くないものの、ヒット曲のパワーで英米チャート同時No.1を獲得している。

異常なほどの盛り上がりになっている映画『ボヘミアン・ラプソディ』に関しては、カナザワは公開初日に観賞済み (その時のポストはこちら)。もちろん素晴らしい音楽映画で、音楽ファンなら観ておくべきだと思う。けれど当時からの熱狂的クイーン・ファンならともかく、5回も10回も足を運ぶヘヴィ・リピーターが続出するほどの名画だとは、到底思えない。ジョン・レノン、マイケル・ジャクソン、デヴィッド・ボウイ…と、死してヒーローに祭り上げられた音楽アーティストは複数いるけれど、今回のフレディ・マーキュリー/クイーンに関しては、ちょっと尋常じゃないなー、という気がしている。ハッキリ言えば、彼らの音楽的魅力、バンドの持ち味とは違った次元での話になっている、と思うのだ。

それは世の中が、圧倒的なカリスマ性を持ったヒーロー(ヒロイン)を、待ち望んでいる証しなのではないか。そういう時代の空気が、映画のヒットをキッカケに大爆発した。中途半端な人気アーティストは、アラ探しをされ、SNSで叩かれてしまうご時世。亡くなった人は、自ずと持ち上げられやすくなる。そこへきてフレディは、自身がカリスマ性を高めていく一方で、残されたメンバーたち、ブライアン・メイやロジャー・テイラーがクイーンの看板を守り抜き、フレディ幻想を受け止めながら、その遺産を現在も継続させている。完全に過去になっていないところが重要な要素のひとつではないか。

LGBTや移民の問題、ビジネス・トラブル、バンド内の軋轢…、そうしたネガティヴ要素が、すべて音楽とエンターテイメントの前に霧散していくのもストーリーとして美しく、現代人のストレス解消に ひと役買っているだろう。更にスピーディーで展開の多いクイーン楽曲が、その物語をドラマチックに演出する効果があった。

でも映画であれ音楽であれ、クイーン・サイドからの発信だけでは、今のような “現象” にはならないはず。クールに見ればあの映画は、政治やイデオロギー、貧困など、社会生活に密着した問題からは距離を置いている。そこが実にクイーンらしいところで、実は多くの人々が素直に映画にシンパシーを寄せることができる影の要因になっていると思う。逆に言えば、日本ではそれが尻上がりにメガヒットしているのだから、表向き平和に見える今の日本は、実はそれだけ国民に心の闇が広がっていることになるのでは?