michael stosic

  至福のウェストコースト・ブリーズに包まれて…
 そのクオリティに驚愕するAOR/ブルー・アイド・ソウルの
 秘宝が、歓喜の世界初リイシュー。


ネバダ生まれのコンテンポラリー・クリスチャン系シンガー・ソングライター、マイケル・ストージックが82年に残した知られざる名盤、奇跡の復刻。
西海岸の爽快なブリーズが、ゆったり心地よく耳をくすぐります。

Light Mellow Searches、この夏の隠しダマ またひとつ、超ニッチな隠れ好盤が白日の下に晒される。82年当時のプレス枚数は、たった100枚。しかも商品として流通したのは、地元レコード・ショップが買い取って販売した25〜30枚ほどだ。その他はすべてサンプル盤で、ディール獲得のために音楽関係者へ無料配布された。でもそれは実を結ばなかった。このクオリティで正式リリースが叶わないなんて、この業界はまるで伏魔殿のようだな、と思ってしまうが、でもそれが40年近く経ってこうして日本でオフィシャル・リリースされるなんて、これまた世の中、ホントに何が起きるかわからない。

最も影響を受けたのはケニー・ロギンス。
「彼の歌声が大好きだったし、ソングライターとしても素晴らしいと思った。それで自分がやりたいのはコレだと気づいたんだ」

父はバーバーショップ・カルテットのメンバーで、母もハイスクール時代にシンガーだった。だから家にはいつも音楽があった。マイケルも10歳でピアノを始め、11歳でギターを手に取り初のオリジナル曲に挑戦。学校のダンス・パーティーでも演奏し始め、15歳頃にはナイトクラブや大学で演奏していた。ビーチ・ボーイズのハーモニーに惹かれ、ブライアン・ウィルソンを天才と崇めたのもこの頃。コンテストに出場すると3位入賞。地元コロシアムで数千人を前にプレイしたこともあるという。81年に何とか音楽シーンに食い込もうとL.A.へ。そこで同郷のプロデューサー:ジム・スティペックに再会し、このアルバムへの道筋が敷かれていく。

このプロデューサー氏はCCMレーベルで音楽制作に関わっていたが、このアルバムはゴスペルに非ず。収録曲にも自分の楽曲はなく、すべて周辺ライターによって持ち込まれた。でもそこには洗練されたR&Bフレイヴァーが共通して流れている。
「正しい見方だね。ボズ・スキャッグスのようなテイストや、ホール&オーツのようなブルー・アイド・ソウルっぽさがあると思うよ」

しかもそのうち4曲は、デヴィッド・バトゥとスコット・シェリーの共作。更にそのうちの1曲には、彼ら2人にリチャード “ムーン” カルフーンが加わる。デヴィッド・バトゥは、兄ロビンと共に73年にバトゥとしてデビューし、76年にはA&Mからソロ作『HAPPY IN HALLYWOOD』を出した人。パブロ・クルーズ、シールズ&クロフツ、アート・ガーファンクル、マンハッタン・トランスファー、ボニー・レイット、ヴァレリー・カーター、ドナ・サマー、セルジオ・メンデス、ジャーメイン・ジャクソン、ニュー・エディション、ロバート・パーマー、マイケル・センベロ、そして最近はマデリン・ペルーなどへの楽曲提供してきた売れっ子である。そしてスコット・シェリーは、故ジェフ・ポーカロが唯一プロデュースを手掛けたバンド:ザ・ストランドのギタリスト。当時はボズ・スキャッグスのバンドで弾いていたそうだ。おそらくマイケル・ランドウと入れ替わりぐらいのタイミングであろう。そしてそのザ・ストランドのシンガーがカルフーン。元々ルーファスのドラマーだったが(ジョン・ロビンソンの前任)、交通事故で腰椎を痛めてヴォーカルに転向し、このバンドに参加した。その後ギターのマイケル・トンプソン・バンドで歌っているのをご存知の方も多いだろう。

地元制作なので著名ミュージシャンの参加はないものの、例外的に入っているのが、サックスのジェリー・ラクロアだ。エドガー・ウインター&ホワイト・トラッシュ、ブラッド・スウェット&ティアーズ、レア・アースなどブルー・アイド・ソウルの名門グループを渡り歩き、シンガー・ソングライター兼サックス奏者としてマニアに注目された人である。72年、74年にはソロ作も。本作ではサックスに加え、ホーンとストリングスのアレンジでも貢献した。
「この頃ジェリーは、リノのスタジオでエンジニア兼セッション・ミュージシャンとして働いていた。私たちにはホーンズが必要だったから、彼にも参加してもらったんだ。素晴らしい仕事をしてくれたね」

ジックリ聴いていくと、ビル・ラバウンティやロビー・デュプリー、フランキー・ブルー、グレッグ・ギドリー、クレイグ・ランクあたりを髣髴させる瞬間がアチコチに。82年録音で、それだけAOR度が高い。何故これでディールが取れなかったのかが不思議なほど、楽曲クオリティが安定している。さすがに録音面やシンセの音には若干ローカル感が漂うものの、ラストの曲まで一瞬たりとて飽きさせない。もし当時の日本に話が持ち込まれていたら、きっとどこかのレコード会社と契約できていたはずだ。

でも失意の中、子供が生まれたばかりのマイケルはビジネスの道を選び、一旦音楽の世界から離脱。数年後に再び曲を書き始め、CCM方面に足を踏み込んでいく。こうして奇跡的リイシューが叶ったのも、彼が今も歌い続けているからに他ならない。まずは下に貼ったダイジェストをチェックして、皆さんもそのミラクルを共有してほしい。