summer of love

地元シネコンで映画『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がデレビ放映されなかった時)』を観た。まぁ、サブタイトルは少々大袈裟だと思うけど、あのウッドストックと同時期に、ニューヨークという大都市にあるハーレムで、こうした黒人音楽のビッグ・イベントがあったとは…。その名も、ハーレム・カルチャラル・フェスティヴァル。1969年の夏、6月末から8月末までの日曜日に6回開催されたフリー・コンサートで、動員数はのべ30万人。なんだ、規模感としては、ウッドストックにだって負けていないじゃないか。その時の記録フィルムが、実に50余年もの時間を経てドキュメンタリー映画として蘇った。

映像は、ハタチそこそこのスティーヴィー・ワンダーのドラム・ソロで始まる。続いて登場するのは、フィフス・ディメンション、デヴィッド・ラフィン、B.B.キング、ステイプル・シンガーズ、マヘリア・ジャクソン、ヒュー・マセケラ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ニーナ・シモン等など。どのアーティストも存在感抜群で、それぞれのライヴ・パフォーマンスのハイライトを、ごく短く摘んでダイジェストで繋いでいく内容だ。

真夏なのにトレードマークのツイード・コートを着て、ソロ曲ではなくテンプス時代の<My Girl>を歌うなどプロに徹するデヴィッド・ラフィン。圧巻のゴスペル・シンギングを炸裂させたマヘリア。そして強烈な連帯感を生み出すスライとポエトリー・リーディングで心に訴えるニーナ・シモンは、互いにオーディエンスとの間に特別な関係を築いていく。個人的に印象に残ったのはフィフス・ディメンション。人種を超越したポップ・アクトだけに、黒人イベントでの承認欲求が強かったのかもしれないが、そのかなりの熱量で歌い迫るステージに思わずほだされる。ヒュー・マセケラを筆頭にマックス・ローチやモンゴ・サンタマリア、ソニー・シャーロック、アビー・リンカーンなど、ジャズ系の出演も嬉しかった。そして映像にチラリ登場したハービー・マン。何でも貪欲、悪く言えば節操のない人だけど、白人のジャズ・フルート奏者がここに出演していた、というのは、結構驚いたポイント。

何れにせよこの映画は、各アーティストのパフォーマンスを楽しむエンターテイメント映画ではなく、音楽を媒体とした黒人社会運動の一端を捉えたドキュメンタリーとして観るべき。イベントとしては、“愛と平和”の看板にうつつを抜かして享楽に走ったウッドストックの裏側で開かれたことに意味があるし、それがニューヨークのハーレムで日曜毎に行われたことも象徴的。そして、ほぼ黒人で占められた中にポツンポツンと観に来ている白人オーディエンス、何より当時のリンゼイ・ニューヨーク市長が、白人なのにブラザーと慕われ、自ら黒人群衆の中へ飛び込んでいく。彼は保守的な共和党員なのに、こういうリベラルな手法を採っていたことにまたも驚いた。政治家は党のためにいるんじゃなく、民衆のためにいる。今の日本の政治家は多くは、50年前にも劣るな。

こうして眠っていたフィルムを映画にまとめあげた、クエストラヴの叡智も賞賛に値しよう。当時の出演者や関係者らのインタビューが随所に挟まれるが、当時のオーディエンスのコメントひとつひとつにも、実は隠された意味がある。ただノスタルジーでこのイベントを語っているのではなく、これに感化・触発されて今を生きている、そういう人ばかりだからだ。

もちろんそれは映画内での各アーティスト登場順にも。前述のフィフス・ディメンションは、早々に出てきて尚かつ結構な時間を割かれているが、TV番組での彼らの洗練されたステージングを知っていると、こんなにソウルフルでオーディエンスを巻き込んだパフォーマンスなど想像できない。それが引き出されたのは、まさにこのイベントのスピリットゆえ。そしてその先には、やはり近年のブラック・ライヴス・マターがある。だからこそ、このドキュメンタリー発掘の意義が深くなったのは間違いない。

最初に「あるいは、革命がデレビ放映されなかった時」というサブ・タイトルが大げさと書いたが、実はコレ、ギル・スコット・ヘロンの人気曲の一節から引用したものだそうだ。

サマー・オブ・ソウル 公式サイト