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ロニー・スペクターが12日に亡くなったばかりだが、アメリカン・ポップス史に残る名シンガーだと知りつつ、個人的な思い入れが薄いので、追悼記事は一家言持つ方々にお任せすることにした。でもこうした自分の嗜好に絡むポップ職人の訃報には、触れずにはいられない。元フィフス・アヴェニュー・バンドで、アース・ウインド&ファイアーやマドンナ、ヴァネッサ・ウィリアムスなどにヒットを提供したジョン・リンド(Jonathan G. Lind)が、15日に亡くなった。2年の間、癌と闘病を続けていたという。享年73歳。

ジョンは1948年にブルックリンで生まれ、ロング・アイランドのオイスター・ベイで育っている。ニューヨークのマンネス音楽学校では、クラシック・ギターを専攻。しかし彼が心から惹かれていたのはフォーク・ミュージックで、ピーター・ポール&マリー、ジョーン・バエズ、ジュディ・コリンズ、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、リッチー・ヘヴンス、ティム・ハーディンなどに夢中になっていたそうだ。フォーク・クラブではバエズやディラン、ハリー・チェイピン、スコット・マッケンジーらの前座で歌ったこともあったという。そしてピーター・ゴールウェイやケニー・アルトマンらとフィフス・アヴェニュー・バンドを結成。フォークとポップス、ソウルを綯い交ぜにしたスタイルを目指した。そしてラヴィン・スプーンフルのマネージャー、ボブ・カヴァロと知り合う。

フィフス・アヴェニュー・バンドはそのカヴァロの紹介でモー・オースティンに会い、リプライズと契約してデビュー。スプーンフルのザル・ヤノフスキーと一緒にローラ・ニーロのサポートなども行なったが、バンドはアルバム1枚で71年に解散。サンフランシスコへ移ったジョンは、ヴァレリー・カーターらとハウディ・ムーンを結成し、ローウェル・ジョージのプロデュースでアルバム発表した。しかし、ジョン曰く「CSN&Yがブルガリアのフォーク・ソングを歌っているみたいだった」ハウディ・ムーンもすぐに活動停止。そこでジョンはカヴァロに相談。カヴァロは73年からアース・ウインド&ファイアーのマネージャーになっていて、ジョンに「彼らに曲を書いてみたら?」と提案する。アースは先に、フィフス・アヴェニューの同僚ケニー・アルトマンが書いた<Feelin' Blue>を『OPEN OUR EYES』(74年)に収めており、カヴァロの仲介が先に実績を上げていた。そしてある時、ジョンがカヴァロのオフィスで浮かんだ曲の断片をギターで弾いていると、ちょうどそこへモーリス・ホワイトがやってきて、その曲に興味を持ったという。それが後にラムゼイ・ルイス<Sun Goddes(太陽の女神)>になり、アースのライヴ盤『GRATITUDE(灼熱の狂宴)』にも収録された。

併行してジョンは、ケニーと、英国のシンガー・ソングライター:ビリー・ニコルスと3人でホワイトホースを結成。77年の唯一作は評判となり、ビリーの<Can't Stop Loving You>がレオ・セイヤーやアウトロウズ、フィル・コリンズなどに歌われるが、彼ら自身が成功することはなかった。そこでジョンは、本作的にソングライターになろうと腹を決め、アース・ファミリーのエモーションズやデニース・ウィリアムスに楽曲提供。作詞家アリー・ウィルスと<Boogie Wonderland>を書き上げる。この曲は元々、モーリスが関わる他のグループ用に書かれたが、どうもフィットせず、モーリスがアースで演ることにしたという。そしてモーリス、カヴァロ、アースが所属する米コロムビアが共同で新レーベル:ARC(American Recording Company)を立ち上げると、ジョンはレーベル業務にも携わり、レン・ウッズやD.J.ロジャース、ラリー・ジョン・マクナリー、レイ・ケネディらをサポートした。

でも80年代半ばになると、モーリスらと別れてワーナー系の出版社へ。マドンナ<Crazy For You>、ヴァネッサ・ウィリアムス<Save The Best For Last>の他、シェール、ピート・タウンゼンド、チープ・トリック、テンプテーションズ、アーロン・ネヴィル、ブルース・ウィリス、アトランティック・スター、杏里などにも楽曲提供している。個人的には、ジェノビア・ジーター&グレン・ジョーンズ<Together>なんてデュエット名曲も忘れ難い。その後も複数の音楽出版社を経由し、レーベル運営に携わるように。最近ではマイリー・サイラス、ジョナス・ブラザーズ、セレナ・ゴメス、デミ・ロヴァートなどがジョンの仕事だったが、やっぱり自分世代だと、80年代半ばまでのジョン・リンド・ワークスに愛着があるな。

Rest In Peace...