山下達郎、11年ぶりのアルバム『SOFTLY』。我が家にもフラゲで到着しました。購入したのは、アコースティック・ライヴCD付きの初回限定盤2枚組とアナログ盤。カセットは迷うことなく、断固スルー。一部のマニアには流行っているけど、果たして購入した方々の何パーセントが実際に聴くのだろうか?と思ってしまう。断捨離なんてコトが叫ばれている時代なのにな。でも生産限定アナログ盤は、早々に売り切れてしまっているみたい。
さて、このブログを書いている現時点では、まだ2回しか聴けていないが、新作とはいえ、全15曲中半分くらいは既発表曲。なので、11年ぶりというお久しぶり感は ほぼ皆無。それでいて古臭さを感じないのは、プロダクツの部分で最先端のテクノロジーを取り入れているからだろう。楽曲自体は以前と変わらぬ達郎節でも、空気感は清新だ。
ま、ありとあらゆる媒体が持ち上げているので、アルバムの内容についてはココでは触れる必要もないだろう。当代サイコーのクオリティ・ミュージックを聴かせてくれるのは疑いないし、69歳という年齢も感じさせない。気になる人は、四の五の言わず絶対に聴くべき。“待った甲斐があった” とキャッチコピーは、偽りでも誇張でもない。<うたのきしゃ>とか<LEHUA, MY LOVE>とか、ホントに大好きになりそうだ。
それでも私的な感覚では、自分にとって一番フィットする達郎作品は、『POCKET MUSIC』ぐらいまで。『FOR YOU』あたりは自分のバンドのリズム・セクション(伊藤広規・青山純)とスタジオ入りしてリズムを先に録音し、そのあとメロディを乗せていったそうだが、コンピュータを導入した頃から、徐々に曲作りの方法が変わっていったのだろう。バンド・サウンドから、よりシンガー・ソングライター然とした作風へ。そしてその手法は現在も続いている。だからアンサンブル好きの自分とは、それなりの隙間ができてしまったのではないか。今ももちろん達郎サウンドは好きだけれど、割と冷静に接している感じ。これは当時の自分が若くて多感だった、というコトだけではないと思っている。
それより気になって仕方ないのは、達郎さんを取り巻く状況だ。11年ぶりの新作でメディアが浮き足立つのは理解できる。でも、その右向け右の大絶賛ぶりが、ちょっと大政翼賛会みたいで違和感を持ってしまうのだ。批判的なコトは何も言えないような、そんな空気を感じる。素晴らしい作品だけれど、聴き手全員が100点満点を出すワケではないだろう。例えば、あの衝撃的なジャケに、異を唱える者はいないのか? 実際、伝統的技法を使った肖像画だそうで、芸術的には素晴らしいと思う。でも一方で最初にアレを見た時に、ギョッとして身を引いた人は少なくないとも思われ…。『GO AHEAD!』を思い出した、なんて声も耳にしたが、あれはポップ・アートとして面白かった。でも今回はどう? 芸術的価値はともかく、グレー・ゾーンにいるような一般的音楽ファンはどんなことを思うだろう? 最終的にはご本人の意思が尊重されるにしても、何処からも何の疑問も出ないとしたら…? それは忖度以外の何モノでもない。古いスタッフには「殿」なんて呼ばれているらしい達郎さんだけど、それが“裸の王様”では悲しい。
この重厚な肖像画のアートワーク。“不死鳥”で始まり、“再生”で終わるソング・フロー。上原ユカリが参加したシュガー・ベイブへの原点回帰感。誰も口には出さないけれど、1枚のアルバムに10年もかかっていたら、コレが達郎さん最後のオリジナル・アルバムになる可能性だって低くはない。まだまだ新曲は出してくれると思うし、ライヴ盤や企画作も出てくるだろうが、次のオリジナル作まで11年も開いたら、氏はもう80歳。悲しいけれど、今のまま、というワケにはいかないだろう。コロナ禍で生まれたおウチ時間で作った自然体のアルバムに見えるけれど、タイトルとは裏腹の、秘めた想いがあるのではないか。
賛否両論を巻き起こしたサブスクリプション解禁否定発言にしても、思うところが。「表現に携わってない人間が自由に曲をばらまいて、その儲けを取っている」という論旨には、それなりに納得できるモノがある。でも、だから解禁しない、ではなく、どうしたら解決できるか、そちらの方向へ動くべきではないか? それは一介の人気アーティストにできることではなく、氏のようなご意見番的ポジションにいればこそ。達郎さんはいつも自分を謙遜するけれど、彼じゃなきゃできないコトは、今の業界にたくさんある。野球選手の筒香が、ポケットマネー2億円を出して故郷の子供たちのために天然芝の野球場を建設しているという話を聞いて、達郎さんにも何かを期待せずにはいられなくなった。
ま、ありとあらゆる媒体が持ち上げているので、アルバムの内容についてはココでは触れる必要もないだろう。当代サイコーのクオリティ・ミュージックを聴かせてくれるのは疑いないし、69歳という年齢も感じさせない。気になる人は、四の五の言わず絶対に聴くべき。“待った甲斐があった” とキャッチコピーは、偽りでも誇張でもない。<うたのきしゃ>とか<LEHUA, MY LOVE>とか、ホントに大好きになりそうだ。
それでも私的な感覚では、自分にとって一番フィットする達郎作品は、『POCKET MUSIC』ぐらいまで。『FOR YOU』あたりは自分のバンドのリズム・セクション(伊藤広規・青山純)とスタジオ入りしてリズムを先に録音し、そのあとメロディを乗せていったそうだが、コンピュータを導入した頃から、徐々に曲作りの方法が変わっていったのだろう。バンド・サウンドから、よりシンガー・ソングライター然とした作風へ。そしてその手法は現在も続いている。だからアンサンブル好きの自分とは、それなりの隙間ができてしまったのではないか。今ももちろん達郎サウンドは好きだけれど、割と冷静に接している感じ。これは当時の自分が若くて多感だった、というコトだけではないと思っている。
それより気になって仕方ないのは、達郎さんを取り巻く状況だ。11年ぶりの新作でメディアが浮き足立つのは理解できる。でも、その右向け右の大絶賛ぶりが、ちょっと大政翼賛会みたいで違和感を持ってしまうのだ。批判的なコトは何も言えないような、そんな空気を感じる。素晴らしい作品だけれど、聴き手全員が100点満点を出すワケではないだろう。例えば、あの衝撃的なジャケに、異を唱える者はいないのか? 実際、伝統的技法を使った肖像画だそうで、芸術的には素晴らしいと思う。でも一方で最初にアレを見た時に、ギョッとして身を引いた人は少なくないとも思われ…。『GO AHEAD!』を思い出した、なんて声も耳にしたが、あれはポップ・アートとして面白かった。でも今回はどう? 芸術的価値はともかく、グレー・ゾーンにいるような一般的音楽ファンはどんなことを思うだろう? 最終的にはご本人の意思が尊重されるにしても、何処からも何の疑問も出ないとしたら…? それは忖度以外の何モノでもない。古いスタッフには「殿」なんて呼ばれているらしい達郎さんだけど、それが“裸の王様”では悲しい。
この重厚な肖像画のアートワーク。“不死鳥”で始まり、“再生”で終わるソング・フロー。上原ユカリが参加したシュガー・ベイブへの原点回帰感。誰も口には出さないけれど、1枚のアルバムに10年もかかっていたら、コレが達郎さん最後のオリジナル・アルバムになる可能性だって低くはない。まだまだ新曲は出してくれると思うし、ライヴ盤や企画作も出てくるだろうが、次のオリジナル作まで11年も開いたら、氏はもう80歳。悲しいけれど、今のまま、というワケにはいかないだろう。コロナ禍で生まれたおウチ時間で作った自然体のアルバムに見えるけれど、タイトルとは裏腹の、秘めた想いがあるのではないか。
賛否両論を巻き起こしたサブスクリプション解禁否定発言にしても、思うところが。「表現に携わってない人間が自由に曲をばらまいて、その儲けを取っている」という論旨には、それなりに納得できるモノがある。でも、だから解禁しない、ではなく、どうしたら解決できるか、そちらの方向へ動くべきではないか? それは一介の人気アーティストにできることではなく、氏のようなご意見番的ポジションにいればこそ。達郎さんはいつも自分を謙遜するけれど、彼じゃなきゃできないコトは、今の業界にたくさんある。野球選手の筒香が、ポケットマネー2億円を出して故郷の子供たちのために天然芝の野球場を建設しているという話を聞いて、達郎さんにも何かを期待せずにはいられなくなった。