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今ブームになっているシティ・ポップの創生に深く関わり、近年は日本とブラジル音楽の架け橋になっていた大物音楽プロデューサー、宮田茂樹氏が急逝された。午後SNSで第一報を知り、真偽を確かめたいと思っていた所、深夜にご遺族からのポスト。事実なのだと受け止めた。7月29日19時半過ぎに死亡確認。死因は急性心筋梗塞。享年72歳だった。

70年代後半のRCAレコード制作部で、牧村憲一氏と共に大貫妙子、竹内まりや、EPOらを育て、84年に独立してMIDI Records(現ミディ)を設立。小野リサのデビュー、そして伝説的ボサノヴァ・シンガー:ジョアン・ジルベルトと深い親交を持ち、日本公演を実現させた功労者。(詳細はwikipedia参照)

業界的には、“東大出のディレクター”として異名をとったが、在学中の74年に、リバティ・ベルズという5人組コーラス・グループの中心人物として、シングル<幸せがほしい c/w やさしい関係 />をCBSソニー(当時)からリリース。しかも両面とも、作詞:松本隆&作編曲:樋口康雄の作品で、時代を考えると信じ難い洗練度だとか。和モノのソフト・ロック・コーラスとして知る人ぞ知る名曲とされ、以前からその筋の好事家には垂涎のネタとなっていたそうだ。元々は南沙織のバック・コーラスを担当、その頃からバツグンにオシャレなセンスを発揮していたらしい。

もちろんカナザワも、RCA3人娘を手掛けた敏腕ディレクターとして、以前からお名前だけは知っていた。お近づきになったのは、氏が09年にプロデュースした隼人香織『Lindas』のご縁。レコード会社からの依頼で宣伝用フライヤー用に寄稿したところ、それをイタく気に入っていただき、都内ホテルのカフェに呼び出されたのだ。最初はかなり緊張したが、実はすごく物腰の柔らかい方で、キャリアや知性は噯にも出さない。それ以来、ライヴで会ってご挨拶したり、たまにメールやSNSで連絡をいただいたり。特に、とある2世シンガーを世に出したいね、と意気投合し、氏のプロデュースで彼女がデモ録音するスタジオに呼んでもらったこともある。プロツールスとアナログ・マルチ・レコーダーを同時に回していたが、あれは氏ならではのコダワリだった。結局そのシンガーはコーラスの仕事を選び、そのデモもお蔵入り。それでもココから広がった人脈もあって、一介の音楽ライターとしてはなかなかできないような、とても貴重な体験をさせて戴いた。

実はこの3週間ほど前にも、突然「聴いて欲しいCDがあるので、お送りします」とメッセージを戴き…。それがブラジル音楽に傾倒する日本人ヴォーカリスト:Nobieの『Benin – Rio – Tokyo』。氏の最新プロデュースで、リオーネル・ルエケ、トニーニョ・オルタ、馬場孝喜という3人のギタリストをフィーチャーしている。自分が締切に追われていて、その感想をお伝えできないうちに、氏は突然旅立ってしまった。

ただ、何年も前から大病を繰り返し、度重なる入院と手術で、病気のデパート状態。いつ召されても不思議ではなかった。それなのにその都度 元気に生還されて、周囲から “不死身?” なんてイジられるほど。でもそれが本当にそうなる時は、ホンの一瞬で、ほとんど苦しまずにアッサリと逝く。当日もfacebookにポストしていたし、ご家族とは直前にLINEしていたとか。119番もご自分で。それが救急が着いた時には、既に心肺停止状態だったという。そうしたところも、いつも飄々としていた あの方らしいのかな

こういうご時世なので、ひとまず家族葬を行ない、後日 偲ぶ会を催すそうです。その時は万事繰り合わせて駆けつけなくては…

改めて、ご冥福をお祈りします。
ターミヤさん、安らかに…