




正月三が日にして、早くも2本目の訃報。ポインター・シスターズの次女アニタが、12月31日、ビヴァリーヒルズの自宅で家族に看取られながら…。彼女の広報によれば、死因は癌だったそうだ。享年74歳。
ポインター・シスターズはカリフォルニア州オークランド生まれ。元々は1969年に三女ボニーと四女ジューンが組んでクラブで歌い始めた“ポインターズ・ペア” が母体。その後姉のアニタが加わってトリオになり、アトランティックと契約してデビューを果たす。72年末になって長女ルースが参加し、4人編成になって73年にブルー・サムから再デビュー。当時のスタイルは、ジャズとソウルの折衷にオールド・タイミーなポップ・フレイヴァーをブレンドしたもの。アラン・トゥーサンのカヴァー<Yes We Can Can>、アニタとボニーが書いた<Fairytale>などをヒットさせ、最初のグラミーをカントリー・ヴォーカル・パフォーマンスのカテゴリーで受賞した。
78年にボニーが独立してソロ転向し、3人組となったが、そこからが真骨頂。大物プロデューサー:リチャード・ペリーと手を組み、ブルース・スプリングティーンが提供した<Fire>、トム・スノウが書いた<He's So Shy>や<Slow Hand>、そしてテクノ・ディスコの<Automatic><Jump>などを全米トップ5に送り込み、<I'm So Excited>は2度チャートに荒らした。
グループを続けた3人のうち、ジューンは83年にソロ・アルバムは発表。それに続いたのがアニタで、 87年に『LOVE FOR WHAT IT IS』をリリースしている。プロデュースは、ジョージ・ベンソンやケニー・G、ステイシー・ラティソウなどで手腕を振るっていたプレストン・グラス。彼はナラダ・マイケル・ウォルデン人脈から頭角を現した人で、ホイットニー・ヒューストンやアレサ・フランクリン、ライオネル・リッチーなどとも仕事をしていた。
アニタのアルバムでも、楽曲ごとにバイ・オール・ミーンズでお馴染みスタン・シェパードが共同プロデュースに当たったり、トム・スノウ提供曲をフィリップ・ベイリーとデュエットしたり。ブレンダ・ラッセルとプレストン・グラスの共作曲もある。大してヒットはしなかったし、時代的に打ち込みバリバリのサウンドだったけれど、そこそこイイ曲が入っていたな。
2015年からライヴ活動を止めていたアニタの死去で、残された姉妹は長女ルースのみ。ビー・ジーズもそうだけど、若い方から順に亡くなっていくのは悲しいな。
Rest In Peace
78年にボニーが独立してソロ転向し、3人組となったが、そこからが真骨頂。大物プロデューサー:リチャード・ペリーと手を組み、ブルース・スプリングティーンが提供した<Fire>、トム・スノウが書いた<He's So Shy>や<Slow Hand>、そしてテクノ・ディスコの<Automatic><Jump>などを全米トップ5に送り込み、<I'm So Excited>は2度チャートに荒らした。
グループを続けた3人のうち、ジューンは83年にソロ・アルバムは発表。それに続いたのがアニタで、 87年に『LOVE FOR WHAT IT IS』をリリースしている。プロデュースは、ジョージ・ベンソンやケニー・G、ステイシー・ラティソウなどで手腕を振るっていたプレストン・グラス。彼はナラダ・マイケル・ウォルデン人脈から頭角を現した人で、ホイットニー・ヒューストンやアレサ・フランクリン、ライオネル・リッチーなどとも仕事をしていた。
アニタのアルバムでも、楽曲ごとにバイ・オール・ミーンズでお馴染みスタン・シェパードが共同プロデュースに当たったり、トム・スノウ提供曲をフィリップ・ベイリーとデュエットしたり。ブレンダ・ラッセルとプレストン・グラスの共作曲もある。大してヒットはしなかったし、時代的に打ち込みバリバリのサウンドだったけれど、そこそこイイ曲が入っていたな。
2015年からライヴ活動を止めていたアニタの死去で、残された姉妹は長女ルースのみ。ビー・ジーズもそうだけど、若い方から順に亡くなっていくのは悲しいな。
Rest In Peace
グループとしてもソロとしてもソウル畑ではなくてはならないメンバーでした...