
シティポップ系の書きモノの絡みで、いわゆる “サヴァンナ・バンド歌謡” なんて呼ばれるあたりに思いを巡らせていて。最近も土岐麻子や角松敏生がエルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズ<A Night In New York>をカヴァーしていたが、リアルタイムはストレートにカヴァーするんじゃなく、影響とか引用とかパクリとか…。当時の名のあるアレンジャーなら、必ずそれっぽいコトをやっていたけど、一番ハマっちゃってたのが加藤和彦。竹内まりやのデビュー曲<戻っておいで 私の時間>(78年)あたりがその最初かと思うけど、いろいろトライ&エラーを繰り返しつつ、若き日の坂本龍一や清水信之を起用して、それをシンセ・オーケストラで再構築していく。トノバン自身は『GARDINIA』で、和製ボサノヴァに傾倒。そこにサヴァンナ・バンドの影響が入ってくれば、『パパ・ヘミングウェイ』(79年)になるのはよく分かる。そのサヴァンナ・バンドの影響を、ひと足早くコンセプト化してアルバムにしちゃったのが、実はサディスティックスの1st(77年)。そして作品化は少し遅れるのだけれど、おそらく真っ先に自分のサウンドに取り込もうとしていたのが、細野晴臣だったのでは?と思う。
ちなみにサヴァンナ・バンドの正式名称は、ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド。“キッド・クレオール”ことオーガスト・ダーネルを中心に、ニューヨークで結成されたラテン乗りのダンス・バンドで、76年にデビュー。当時大流行していたディスコ・ミュージックと30年代〜40年代のビッグ・バンド・ジャズやキャバレー・ミュージック、そしてラテン・サウンドをミックスして、古くて新しいダンス・ポップスとして注目された。バンド自体は短命だったが、ダーネルはキッド・クレオール&ザ・ココナッツとして再デビュー。日本でも洋酒のTV-CMに出演するなど、成功している。そのダーネルがプロデュースして送り出したのが、前述したエルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズ。
サヴァンナ・バンドのデビューが76年ということは、細野の『泰安洋行』と同じ年。つまり、彼が提唱したチャンキー・ミュージックの形成には、サヴァンナ・バンドは関係ない。しかしそこから『はらいそ』に至るプロセスで、サヴァンナ・バンドを耳にしたのは間違いないだろう。ココではYMOの前哨戦とも受け取れるディスコ・サウンドの萌芽も見て取れるし、ニューオリンズや沖縄だけでなく、<四面道歌><ジャパニーズ・ルンバ><はらいそ>あたりで、より広いワールド・ミュージック観を提示。坂本龍一・高橋幸宏が参加した<ファム・ファタール~妖婦>は、ご存知のようにYMOのスタートに発展した。トノバンがビッグ・バンド・スタイルで行くなら、コレはディスコ・ポップで、という色分けを意識した部分があるやもしれないが、その辺りにサヴァンナ・バンドの影響が見え隠れしている気がする。
YMOが動き出す前、試行錯誤しながら方向性を探っていたこの時期。「この次はモア・ベターよ
」で叫んで終わる遊び心も、細野にはそこからの道筋が見えてきていたからできたのではないかな?
サヴァンナ・バンドのデビューが76年ということは、細野の『泰安洋行』と同じ年。つまり、彼が提唱したチャンキー・ミュージックの形成には、サヴァンナ・バンドは関係ない。しかしそこから『はらいそ』に至るプロセスで、サヴァンナ・バンドを耳にしたのは間違いないだろう。ココではYMOの前哨戦とも受け取れるディスコ・サウンドの萌芽も見て取れるし、ニューオリンズや沖縄だけでなく、<四面道歌><ジャパニーズ・ルンバ><はらいそ>あたりで、より広いワールド・ミュージック観を提示。坂本龍一・高橋幸宏が参加した<ファム・ファタール~妖婦>は、ご存知のようにYMOのスタートに発展した。トノバンがビッグ・バンド・スタイルで行くなら、コレはディスコ・ポップで、という色分けを意識した部分があるやもしれないが、その辺りにサヴァンナ・バンドの影響が見え隠れしている気がする。
YMOが動き出す前、試行錯誤しながら方向性を探っていたこの時期。「この次はモア・ベターよ
