full moonfull moon 2

バジー・フェイトンとニール・ラーセンが率いたフル・ムーンの72年盤『FULL MOON』、通称『オリジナル・フル・ムーン』が何度目かの復刻。CDは既に再発されているが、今回はアナログ盤も4月の《Record Store Day 2023》にて、少し遅れて登場予定。もっともアナログ盤復活も初めてではないが、今回は初の帯付き盤というコトらしい。しかも、バジーが02年に復活させたニュー・フル・ムーン(名義はバジー・フェイトン&ニュー・フル・ムーン)のCDも一緒に再発。タワーレコード渋谷では、フル・ムーンの最初のCD化から関わっている長門芳郎氏らのトーク・ショウも予定されていて、何やら再注目の動きが…。かくいう自分も某誌の特集記事を担当し、久々にこの2枚にジックリ向き合うことになった。

AOR界隈で以前からよく言われるのは、この時期のフル・ムーンと、その後のラーセン=フェイトン・バンドの違いについて。バジーとニール以外は顔ぶれが違うから、当然と言えば当然だが、イニシアチヴを握るコンビはそのままなのに、どうしてこんなに違うのか?と。オリジナル・フル・ムーンをプレAORとして扱うことに異を唱える勢力がいるが、それって「スティーリー・ダンはAORではない」というのと同じ気がしてしまう。ならばその空気感の違いはどこから…? 

オリジナル・フル・ムーンの他の3人、ブラザー・ジーン・ウィンウィディ(sax)、フレディ・ベックマイヤー(b)、フィリップ・ウィルソン(ds)は、いずれもバジーがラスカルズ以前に一緒だったポール・バターフィールド・ブルース・バンドの仲間たち。特にフレディ・ベックマイヤーは、ロング・アイランドのハイスクール時代からの知り合いで、バジーと彼の兄スティーヴとは The Reasons Why というバンドを組んでいた。そうしたバジー寄りの面々は、実はザ・バンドと同じく、ウッドストックにアイデンティティがあったと思う。所属レーベル・オーナーでプロデュースを担ったアラン・ダグラスが、ジミ・ヘンドリックスのマネージャーというのも、同じベクトルを示している。つまり音楽性の構成要素ではなく、精神面や時代感覚の違いだろうか。ちなみにドナルド・フェイゲンは『GAUCHO』の<Hey NIneteen>の歌詞で、ニールやベックマイヤー兄弟が参加していたソウル・サヴァイヴァーズのことを歌っている。

それに対して、コンビ復活後のラーセン=フェイトン・バンドは、スンナリAORとして受け止められている。極めてスタイリッシュなサウンドは、この時期のプロデューサー:トミー・リピューマの持ち味でもあるだろう。トミーはA&M傘下でホライズン・レーベルを任された時にニールとソロ契約を結んでいて、そのサウンドは、ラーセン=フェイトン・バンドのインスト曲とほとんど差がない。いわゆるフュージョン。もっと言えば、オリジナル期にニールが書いたインスト楽曲も、多少ラテン色が入っていたくらいで、作風はそれほど違わない。イヤ、ラーセン=フェイトンにもレニー・カストロを置いたのだから、ニールは当時から あまりブレていないのだ。

しかしバジーとのバランス感で、グループのサウンド・テイストは変わる。リーダー作『JUNGLE FEVER』『HIGH GEAR』が文字通りニールの素の姿だとするなら、ラーセン=フェイトンはほぼ両者対等。いやリピューマがいる分、ニールの方に分があるかも。モントルーのライヴ『CASINO LIGHTS』でも、バジーは同行していなかったのが明らかになっている。ラーセン=フェイトン2作目は、正式名称こそ “フル・ムーン feat.ラーセン=フェイトン” だが、これはおそらくビジネス的配慮だろう。現にバジー主導、ニール不在のニュー・フル・ムーンでは、邦題が『フル・ムーン・セカンド』と謳われているワケで、ラーセン=フェイトンはなかったモノにされている。

言い換えれば、バジーにしてみれば、ラーセン=フェイトンは自分が考えるフル・ムーンではない、ということではないか。バジーはブラザー・ジーン・ウィンウィディこそがバンドの精神的支柱で、彼に対する感謝の気持ちを分かち合うべく、リユニオンを試みたとしている。しかし、ラーセン=フェイトン消滅後のソロ作やライヴにバジーを呼んでいたニールが、そこには参加しなかった。これはどういう意味だったのか? ウッドストック一派から受け継がれる精神性やスピリット こそ重要と考えたバジー、もっとピュアーに音楽の向上だけ求めたニール、その静かなせめぎ合いが垣間見えてくるようだ。

最近は演奏よりも、ギター・ビルダーや、自ら開発したエフェクターのビジネス展開に熱心だと伝えられてきたバジー。が、最近になってガン発症の情報が伝わってきている。ちょっと心配だな。