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またしても、朝一番での訃報。イーグルスのオリジナル・メンバーであり、ポコの創設メンバー、そしてソロでも活躍したランディ・マイズナーが、26日夜、慢性閉塞性肺疾患の合併症によりL.A.で逝去した。イーグルスがロック殿堂入りを果たした98年、往年のメンバーと共に受賞式典に姿を現し、<Hotel California>と<Talke It Easy>をプレイしたが、再結成ツアーなどには参加せず、2015年には双極性障害と診断。重度のアルコール依存症も患っていたという。翌年奥様を亡くし、最近はまったく表舞台に姿を現さなかった。享年77歳。

イーグルスの公式コメント。
「ランディはイーグルスに欠かせない一員であり、バンドの初期の成功に貢献した。代表的なバラード<Take It To The Limit>に表れている通り、驚くべき声域をもっていた」

ネブラスカ州スコッツブラフで生まれたランディことランドール・ハーマン・マイズナーは、62年末、地元で組んだザ・ドライビン・ダイナミクスで最初のレコードを吹き込んだ。この4曲入りEPで、ランディはサム・クックのカヴァー<You Send Me>でリード・ヴォーカルを担当。彼らは65年にもシングルを出しており、それもランディが歌っている。66年にカリフォルニアに移り、ザ・プアーを結成。68年までの間に数枚のシングルを発表するが、そのうち数枚は、バッファロー・スプリングフィールドやバースと関係が深く、トルバドールのスタッフも務めていたバリー・フリードマン (後のフレイジャー・モホーク/エスラ・モホークの夫)がプロデュースしていた。ザ・プアーはニューヨークでジミ・ヘンドリックスとも共演したが、成果は出せなかった。

68年になると、ランディは元バッファロー・スプリングフィールドのリッチー・フューレイ、ジム・メッシーナとポコを結成。1stアルバム『PICKIN' UP THE PIECES』に参加するも、発売前に脱退。演奏は残されたものの、リード・ヴォーカルは差し替えられてしまっている。69年にはリック・ネルソン&ストーン・キャニオン・バンドに参加。併行してジェイムス・テイラーやコンプトン&バトゥらのセッションに参加。71年にリンダ・ロンシュタットのバンドにスカウトされ、ドン・ヘンリーやグレン・フライ、バーニー・リードンと一緒に行動するようになった。これがイーグルスに発展するのはご存知の通り。ランディのイーグルス在籍は72〜77年の6年間で、アルバムは『HOTEL CALIFORNIA』までの5枚。ハイトーン・ヴォイスに注目が行きがちだけど、<One Of These Nights(呪われた夜)>でのファンキーなベースも、かなりインパクトがあった。今では『HOTEL CALIFORNIA』拡大版に入っている76年ライヴで、在籍時の生演奏が楽しめる(アナログ盤あり)。

ソロ・アルバムもライヴ盤を含め数枚あるが、かなりのマイペースぶりで、本気で取り組んだと思われるのは、エリック・カズとのコラボを中心にした『ONE MORE SONG』と、バンドを率いての『RANDY MEISNER(紺碧のハイウェイ)』を出した80年代前半のみ。個人的にはポコのオリジナル・メンバー再集結盤『LEGACY』(89年)も良かったが、そこから真っ先に脱退したのもまたランディだった。

80年代初めに来日した時のインタビューなどを読んでも、他のアーティストが何をやっているのか、なんてまるで気に留めず、音楽シーンの潮流は何処吹く風。とにかくマイペースで、普段は音楽もロクに聴かず、ただただ田舎でノンビリ過ごすタイプだったらしい。当時、大ヒットしていたドナルド・フェイゲン『THE NIGHTFLY』をブラインドで聴かされ、感想を求められても、完全にスティーリー・ダンの新作だと勘違いして返答するなど、世情にも疎く、メディアに引っ張り出されるのが気の毒なほどだった。きっとその欲の無さ、純朴さが、急速に商業性を増したイーグルスの中で、自分の居場所を失くしたんだと思う。ファンの思いはともかく、ランディは再結成後のイーグルスに関わらないでいて正解だった、と自分は思ってしまうな。

Rest in Peace...