2a307376.jpg連日AORでなくってスミマセン…(苦笑) 仕事になると必然的にAORやその関連が多くなるから、プライベートで聴くものは、どうしてもプログレやらハード・ロックやらの70'sクラシック・ロックに向かってしまうようで…。実はモットの一連の紙ジャケ・シリーズも、買ったままなかなか聴く時間が取れなかったもの。まぁ、中味はアナログ時代に聴いてたから先送りにしちゃってたのだが。

ただしこの『華麗なる煽動者〜モット・ライヴ』に関しては、30thアニヴァーサリーという名目で、アナログのシングル・アルバムがCD2枚組に大幅ヴォリューム・アップしている。っていうか、元々アナログでも2枚組といて予定されていたものを、レコード会社の横槍で1枚にしてリリースしたという曰く付きのライヴ盤だったから、元へ戻ったと言うべきか。でも全23曲、コンサート2本分をほぼ完全収録というのは、アナログ時代はあり得なかったろう。

このコンサート2本分というのは、73年12月のロンドン・ハマースミス公演と、74年5月のニューヨーク・ブロードウェイ公演。ちなみにブロードウェイでプレイしたロック・バンドはモットが初めてで、おそらく前作のスタジオ・アルバム『ロックン・ロール黄金時代(THE HOOPLE)』に入っていたロック・オペラ風の名曲<Marionette>に因んでのモノだったと思う。この時の両公演でのフロント・アクトが、まだデビューして間もなかったクイーン。彼らはメンバー全員がモットの大ファンで、自ら志願して前座についたそうだ。本作のライナーにもブライアン・メイがコメントを寄せており、クイーンが彼らから多大なる影響を受けたのがよく分かる。かの<ボヘミアン・ラプソディー>も、前述した<Marionette>にインスパイアされて生まれた曲だとか。

グラム・ロック的な扱い方を受けたり、イアン・ハンターを英国のボブ・ディランを持ち上げる向きもあるけれど、カナザワ的に見れば、モットの魅力はあくまでロックン・ロール・バンドとして。ミック・ラルフス(g)がいた時代は好きな曲が多かったし、エリアル・ベンダー(g)の時代はこのライヴで聴けるような派手な演奏っぷりにヤラレた。ミックが書いて『すべての若き野郎ども』に収録された<One Of The Boys>なんて(ライヴでも聴けます)、彼がポール・ロジャースと結成したバッド・カンパニー<Can't Get Enough>の原曲だからネ。このライヴ・アルバムが出た頃にはミック・ロンソンにスイッチされてしまっていたベンダーにしても、ココでの弾きっぷりはスゴイよ。ハンターが満足しなかった、というコトらしいけど、これはもうハンターお気に入りのロンソンを首尾よく加入させたかっただけだね。

そもそもモットの歴史は、前身バンドからのオリジナル・メンバー4人と、オーディションでシンガーとして迎え入れられたイアン・ハンターとせめぎ合いの歴史という気がする。ライヴ人気は高いもののレコード・セールス面では鳴かず飛ばずだったアイランド時代は、両者の均衡は保たれていた。しかしデヴィッド・ボウイがプロデュースを買って出て<すべての若き野郎ども>がヒット、解散の危機を脱してからは、急速にハンターへの注目度が高まり、自作曲の発表の場を与えられなかったヴァーデン・アレン(kyd)、ミックが、次々とバンドから離れていく。そしてハンターの独断でベンダーとロンソンの入れ替えが行なわれたことで、残ったオリジナル・メンバーとの確執が表面化。結局ハンターとロンソンはシングル一枚でトンズラし、このライヴが世に出た翌月、華麗なるモットの歴史は閉じられた。

その後モットはメンバーを補充し、"MOTT THE HOOPLE"からシンプルに"MOTT"と改名して2枚のアルバムをリリース。更にシンガーを入れ替え、ブリティッシュ・ライオンズとして活動を続けた。しかしハンターほどの人材には恵まれず、再浮上は叶わなかった。一方ハンター/ロンソン組も、付かず離れずの関係を保ったが(そういえばハンター=ロンソン・バンドもあったか…)、93年にはロンソンが癌で他界してしまう。その後ハンターはリンゴ・スターのオールスター・バンドに加わったりもしたが、あのノホホン・バンドにバリバリのサングラス姿はチョッと浮いてましたね(苦笑)

…にしても、パンクスからの人気も高かったというモット・ザ・フープル。彼らのステージには暴動が付きものだったそうだけど、どこかに映像なんかは残ってないのか知らん。