明け方に目を覚ましたら、天井がグルグル回っている。軽い嘔吐感もあり、午前中はベッドから出られず。尋常じゃないので、ネットで下調べして耳鼻科で聴覚や平衡感覚などを検査したところ、良性の発作性頭位めまい症との診断。一週間ほど軽いめまいが出るかも、と投薬を受け、あとは安静にするのではなく普段通りに、と。ビックリしたな、もう…。幸いなコトにコロナ禍でも大きなストレスを感じずに仕事ができているから、やっぱり寄る年波のせいなのか…?
その中で飛び込んできたのが、ストリングスやオーケストラの名アレンジで知られるジェレミー・ルボックの訃報。長年、デヴィッド・フォスターやクインシー・ジョーンズから信頼を獲得し、映画音楽の世界でも活躍してきた人で、作曲/プロデューサー/キーボード奏者の顔も持つ。フォスター『THE SYMPHONY SESSIONS』でのコラボレイトなどは、まさに彼らしい仕事。これまでに、のべ16回もグラミー賞にノミネート。84年度にはシカゴ<Hard Habit To Break>とL.A.五輪公式アルバムからの<Grace (Gymnastics Theme)>で、フォスターと一緒に2つの最優秀アレンジ賞を受賞。93年には何と同一部門で同時に3曲ノミネートされ、やはりフォスターとの『THE BODYGUARD』<I Have Nothing>を打ち破って、<When I Fall In Love(恋におちる時)(セリーヌ・ディオン&クライヴ・グリフィン)が最優秀アレンジに輝いている。他にもマイケル・ジャクソン、バーブラ・ストライサンド、ケニー・ロジャース、アル・ジャロウ、ジョシュ・グローバンなど、著名共演者は数知れず。直近では、いま話題のトミ・マルム『COMING HOME』にも名を連ねていた。
生まれについてはハッキリしないが、おそらく英国生まれ。父親がクラシックの音楽家だったため、幼少から音楽に親しんだが、特に専門教育は受けておらず、ほとんど独学だとか。10代後半にジャズとアメリカン・スタンダードに目覚め、オックスフォード大卒業後は建築関係の仕事をしながら、ロンドンやパリのジャズ・クラブでピアノ兼シンガーとしてキャリアをスタートさせている。1953年、ビートルズで有名なジョージ・マーティンがプロデュースするセッションで、シンガーとして初レコーディングを経験。50〜60年代はクラブで演奏しながら世界中を旅して回り、幅広い音楽を吸収。彼の音楽スキル、特にアレンジの才能を磨いている。それが実って、70年代初頭にはロンドンの2大TVネットワークであるBBCとITVで、ビッグ・バンドやオーケストラの編曲や指揮を受け持つほどになった。
77年には自分の才能を最大限に活かそうと、知人の招待に応じてL.A.へ移住。プロデューサーのヘンリー・ルーイに紹介されて、当時彼が手掛けていたジョニ・ミッチェル『MINGUS』とミニー・リパートン『MINNIE』にアレンジ/キーボードで参加。その仕事ぶりが高く評価され、クインシーやフォスターに重用されるようになっていく。
『SPECTRUM:Keyboards Strings Synthesizers』と題されたこのアルバムは、彼自身の初アルバム。発表は86年。タイトル通り、自分のピアノとシンセ、自らスコアを書いたオーケストラで創り上げたニュー・エイジ・ミュージック作である。めまいに悩まされる今の自分には、深い眠りにつけそうな安らぎの一枚。発売元の Artful BalanceはAORシンガーだったロジャー・ヴードリスが音楽ビジネス転向後に立ち上げたレーベルで、サックス/マルチ・ミュージシャンであるデヴィッド・ボラフのユニット:DREAMSTREET、お馴染みのkyd奏者ランディ・ウォルドマン、後にエリック・ゲイルやスティックス・フーパー(ex- Crusaders)の作品も出したが、短命に終わった職人の巣窟的レーベルだった。
ジェレミーの死因に関しては、コロナという噂もあるようだが、真偽は不明。キャリアを追うと、少なくても80歳台後半と思われるので、他の要因の可能性が大きいと思う。弟ジョン・ルボックは、67年に結成されたOrchestra of St John's Smith Squareの創設者/指揮者として、クラシック界では知られる存在。後年に兄弟共演も実現している。
Rest In Peace...
生まれについてはハッキリしないが、おそらく英国生まれ。父親がクラシックの音楽家だったため、幼少から音楽に親しんだが、特に専門教育は受けておらず、ほとんど独学だとか。10代後半にジャズとアメリカン・スタンダードに目覚め、オックスフォード大卒業後は建築関係の仕事をしながら、ロンドンやパリのジャズ・クラブでピアノ兼シンガーとしてキャリアをスタートさせている。1953年、ビートルズで有名なジョージ・マーティンがプロデュースするセッションで、シンガーとして初レコーディングを経験。50〜60年代はクラブで演奏しながら世界中を旅して回り、幅広い音楽を吸収。彼の音楽スキル、特にアレンジの才能を磨いている。それが実って、70年代初頭にはロンドンの2大TVネットワークであるBBCとITVで、ビッグ・バンドやオーケストラの編曲や指揮を受け持つほどになった。
77年には自分の才能を最大限に活かそうと、知人の招待に応じてL.A.へ移住。プロデューサーのヘンリー・ルーイに紹介されて、当時彼が手掛けていたジョニ・ミッチェル『MINGUS』とミニー・リパートン『MINNIE』にアレンジ/キーボードで参加。その仕事ぶりが高く評価され、クインシーやフォスターに重用されるようになっていく。
『SPECTRUM:Keyboards Strings Synthesizers』と題されたこのアルバムは、彼自身の初アルバム。発表は86年。タイトル通り、自分のピアノとシンセ、自らスコアを書いたオーケストラで創り上げたニュー・エイジ・ミュージック作である。めまいに悩まされる今の自分には、深い眠りにつけそうな安らぎの一枚。発売元の Artful BalanceはAORシンガーだったロジャー・ヴードリスが音楽ビジネス転向後に立ち上げたレーベルで、サックス/マルチ・ミュージシャンであるデヴィッド・ボラフのユニット:DREAMSTREET、お馴染みのkyd奏者ランディ・ウォルドマン、後にエリック・ゲイルやスティックス・フーパー(ex- Crusaders)の作品も出したが、短命に終わった職人の巣窟的レーベルだった。
ジェレミーの死因に関しては、コロナという噂もあるようだが、真偽は不明。キャリアを追うと、少なくても80歳台後半と思われるので、他の要因の可能性が大きいと思う。弟ジョン・ルボックは、67年に結成されたOrchestra of St John's Smith Squareの創設者/指揮者として、クラシック界では知られる存在。後年に兄弟共演も実現している。
Rest In Peace...
まずはお身体大事になさって下さい。