主に米国東海岸で活躍していたセッション・キーボード奏者/プロデューサーのラルフ・シュケットが死去。一般的な知名度は高くないが、ニューヨークやウッドストック周辺のミュージシャンから厚く信頼され、キャロル・キングやジェイムス・テイラー周辺のセッション・ワーク多数。一番有名なのは、トッド・ラングレンズ・ユートピアの初期メンバーに名を連ねたことか。今回の訃報もトッドが真っ先にSNSで発信した。享年73歳。死因は明らかにされていない。
ラルフ・シュケットは1948年3月、L.A.生まれ。 67年、エレクトラが鳴り物入りでデビューさせたサイケデリック・ロック系のバンド;クリア・ライトで表舞台に登場する。エレクトラは彼らの2枚目のアルバム制作に向け、ニューヨークからダニー・コーチマーを呼び寄せたが、そのまま解散。コーチマーはザ・シティを結成してアルバムを出すが、キャロルがライヴ活動に不慣れだったため、すぐに瓦解。結局チャールズ・ラーキーと共に新グループ:ジョー・ママを立ち上げ、そこにシュケットを誘った。
ジョー・ママで2作を出しつつ、キャロルのソロ、ジェイムス・テイラーや妹ケイト、デヴィッド・ブルー、ジョン・スチュワートらのレコーディングに参加。同じ鍵盤仲間であるムーギー・クリングマンのソロ作に参加したのを機にトッドと親しくなり、アルバム制作に加わった。そしてトッドがプログレッシヴ・スタイルの新グループ:ユートピアをスタートさせる際に、ムーギー共々、トリプル・キーボード・セクションの一角に迎えられ、『TODD RANDGREN'S UTOPIA』(74年)、『ANOTHER LIVE』(75年)で名を挙げた。カナザワが彼のなをインプットしたのも、そのユートピアの第1作で。でもその後はスタジオ・ワーク中心に戻り、ホール&オーツやエレン・シップリー、レイチェル・スウィート、パティ・スマイスなどのアルバムに参加。ブラック系やT V/映画音楽でも活躍し、ポケモンのUSサントラ盤でも知られている。
後期ユートピアではロジャー・パウエルが才覚を発揮していたため、トッドの元を離れてからの共演機会はなかった。が、闘病していたクリングマン支援のため、11年に往年のユートピアのメンバーが結集(当人は忘年没)。18年にもユートピアのメンバーとしてツアーに出ることが発表されたが、健康上の理由でスタート前に参加をキャンセルしている。トッドは急遽イスラエル人鍵盤奏者ギル・アサヤスを迎えて、スケジュールを消化。結局それ以降、シュケットが大きなステージに立つ機会はなかった。
鬼才ムーギーや、エレクトロニクス分野を得意とするロジャー・パウエルに比べると、もっと職人的なバイ・プレイヤーだったラルフ・シュケット。でもこういうプレイヤーの喪失が、意外に後から響いてくるモノなのよ…。
Rest In Peace...
ジョー・ママで2作を出しつつ、キャロルのソロ、ジェイムス・テイラーや妹ケイト、デヴィッド・ブルー、ジョン・スチュワートらのレコーディングに参加。同じ鍵盤仲間であるムーギー・クリングマンのソロ作に参加したのを機にトッドと親しくなり、アルバム制作に加わった。そしてトッドがプログレッシヴ・スタイルの新グループ:ユートピアをスタートさせる際に、ムーギー共々、トリプル・キーボード・セクションの一角に迎えられ、『TODD RANDGREN'S UTOPIA』(74年)、『ANOTHER LIVE』(75年)で名を挙げた。カナザワが彼のなをインプットしたのも、そのユートピアの第1作で。でもその後はスタジオ・ワーク中心に戻り、ホール&オーツやエレン・シップリー、レイチェル・スウィート、パティ・スマイスなどのアルバムに参加。ブラック系やT V/映画音楽でも活躍し、ポケモンのUSサントラ盤でも知られている。
後期ユートピアではロジャー・パウエルが才覚を発揮していたため、トッドの元を離れてからの共演機会はなかった。が、闘病していたクリングマン支援のため、11年に往年のユートピアのメンバーが結集(当人は忘年没)。18年にもユートピアのメンバーとしてツアーに出ることが発表されたが、健康上の理由でスタート前に参加をキャンセルしている。トッドは急遽イスラエル人鍵盤奏者ギル・アサヤスを迎えて、スケジュールを消化。結局それ以降、シュケットが大きなステージに立つ機会はなかった。
鬼才ムーギーや、エレクトロニクス分野を得意とするロジャー・パウエルに比べると、もっと職人的なバイ・プレイヤーだったラルフ・シュケット。でもこういうプレイヤーの喪失が、意外に後から響いてくるモノなのよ…。
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