mike finnigandfk finigan

マイク・フィニガンが逝った。個人的には、AOR界隈ではビル・チャンプリンに匹敵するほどのストロング・スタイルを持ったブルー・アイド・ソウル系シンガーだと思っていて。しかもオルガン奏者としては、ビルを凌ぐ実力派。ただしキャリアのほとんどを誰かのサポートやセッション活動に費やして、自らがスポットを浴びることはなかった。亡くなったのは、8月11日の朝、L.A.の病院で。死因は腎臓ガン。享年76歳だったという。

オハイオ州生まれのフィニガンは、カンザス州ウィチタで組んだ The Serfs のレコーディングのためニューヨークに滞在中、ジミ・ヘンドリックスと出会い、アルバム『ELECTRIC LADYLAND』(68年)に参加。更にジャニス・ジョプリン離脱直後のビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーをサポートしたり、ジェリー・ハーンとブラザーフッドを組んだりを経て、72年、ジェリー・ウッズ(g,vo)とフィニガン&ウッドを組んでデビュー。それがブルーサムから、というのが、まだ何処か運命的で。

その後、元レーベル・メイトのデイヴ・メイスンのバンドに参加。メンバーが一丸となったライヴ・アルバム『CERTIFIED LIVE(情念)』(76年)は、まさしく名演と言える。1曲だけだが、フィニガンのヴォーカルもフィーチャーされ、評判を呼んだ。スワンプ方面で高い評価を受けるマッスル・ショールズ録音の初ソロ・アルバム『MIKE FINNIGAN』発表も、同じく76年。その後レス・デューデックのソロ・ツアーをサポートし、メイスン・バンドのジム・クリーガーと3人でザ・デューデック・フィニガン・クリーガー・バンド(DFK)を結成。これにはマックス・グローネンサル(後のマックス・カール)や元ドゥービー・ブラザーズのマイケル・ホサック(ds)も準メンバー的に参加していた。更にこの時期、DFK関係者が足並みを揃えるようにソロ作をリリースし、マイクも2ndソロ『BLACK & WHITE』を発表。前作でテンガロン・ハットを被っていたマイクが、ここではボズ・スキャッグスのようにスーツでサラリとキメており、音もそれに準じて一気にソフィスティケイト。苦虫を潰したような前作ファンたちを横目に、AOR的な都会派ブルー・アイド・ソウルを聴かせている。でもよく聴けば、彼のルーツもチャンと提示されていて、これぞAOR良識派の傑作だと。自分的には、ビル・チャンプリン『SINGLE(独身貴族)』に並ぶ傑作だと思っているので、拙監修でCD化できたときはサイコーに嬉しかった。

もっとも各メンバー個別の動きによって、DFK自体のアルバム・リリースは遅くなり…。が、こちらはこちらでかなりの傑作。大型アメリカン・ロック・バンドのスケール感はそのままに、産業ロックとは違ったベクトルで、完成度の高いサウンドを聴かせている。ただこのDFK、中心のレス・デューデックがシェールの毒牙に掛かってしまい、彼女がヴォーカルを取るグループ;ブラック・ローズへと変貌。フィニガンもそのまま参加しているものの、アルバムを1枚出しただけで消滅に向かったのは仕方ないかもしれない(現TOTOのウォーレン・ハムもメンバー)。

その後はメイスンとの微妙な距離感を保ちつつ、ボニー・レイット、クロスビー・スティルス&ナッシュ、ジョー・コッカー、ピーター・フランプトン、タジ・マハール、ドン・フェルダーらのセッションで活躍。メイスンとの来日を見逃したカナザワは、タワー・オブ・パワーの05年ジャパン・ツアーで、ロジャー・スミスの代理でやってきたフィニガンをチェックした。最近はタジ・マハールのサポート・メンバーが組んだ別働隊ファントム・ブルース・バンドやボニー・レイットのツアー・バンドで活動しながら、兄弟バンド:フィニガン・ブラザーズで自主盤を作ったり、愛息ケリー・フィニガンのアルバムに参加したり。AOR寄りでは、kyd奏者のデヴィッド・ガーフィールドとの親交が深く、彼が制作したジェフ・ポーカロのトリビュート・アルバムや、最近の一連のカヴァー・シリーズ “OUTSIDE THE BOX” に参加していた。

実力的には もっともっと有名になれるはずだけれど、一方で職人気質の頑固さを持ち、きっと自分のペースで動きたい人だったのだろうな。

Rest in Peace...