jeff baxter

スティーリー・ダンやドゥービー・ブラザーズでギタリストとして鳴らし、ドゥービー離脱後はプロデュース業に身を置いたこともあったジェフ・スカンク・バクスター。御年73歳にして、初めてのソロ・アルバムが登場した。知ってる人は知ってると思うけど、スカンクには軍事アナリストという顔もあって、2001年に米国防総省の軍事顧問に就任。05年にはNASAの有人探査部門の諮問委員にも就いた。いつ公職から離れたかは定かじゃないが、真っ当な仕事でそこまで成功したのだから、もう音楽活動は趣味の範疇だろうと思っていた。だからこのソロ作完成の報には、かなりビックリ しかも国内盤は出ないのに、早々にジャパン・ツアーも行われるから、2度ビックリした

アルバムが出る前に、スティーリー・ダン時代のカヴァー<My Old School>、カントリー・ロック系のクリント・ブラックをヴォーカルにフィーチャーした<Bad Move>が先行リリースされていたので、これが一番ポップなトコロなのだろうと推測。おそらくはロックやジャズ、カントリーとジャンルを超越しながらの、歌モノあり、ギター・インストあり、もしかして空間音響系のアンビエントな楽曲も?と、かなり多彩な内容になることを予想していた。

元々かなりトリッキーなプレイを得意とするギタリストで、演奏も行動パターンも自由奔放。スティーリー・ダンではドナルド・フェイゲン&ウォルター・ベッカーがライヴ活動に消極的だったことから、しばしばドゥービー・ブラザーズに客演。ダンが完全にスタジオ・ユニットへ移行すると、そのままドゥービーに加入し、トリプル・ギターの一角を占めるようになった。その当時からハイチェアーに座ったプレイ・スタイルを貫いている。ダンのサポート・メンバーだったマイケル・マクドナルドをドゥービーに誘ったのもスカンクで、76年『TAKIN' IT TO THE STREET』や77年『LIVIN' ON THE FAULT LINE』でのジャジーなテイストは、彼の存在が大きく作用したと思われる。しかしマイケル主導でAOR化していくドゥービーには同調できなくなり、79年に脱退。ドゥービーがグラミーを受けた時には、すでにグループを離れていた。

その後はセッション活動を続けながら、ブリス・バンドやリヴィングストン・テイラー、カール・ウィルソン、ニルス・ロフグレン、ボブ・ウェルチらをプロデュース。スニーカーのデビューを手掛けたのもスカンクである。しかし大きなヒットを生むことはできず終い。同じ頃、録音機材の最新テクノロジーを学んでいくうちにコンピュータの世界にハマり、軍事用ソフトを研究するようになった。軍事アナリストとして一人前になるまで、生活のためにL.A.市警の警官を務めていたこともある。

スカンクの右腕となったのは、スティーヴ・ルカサーとの活動でも知られるC.J.ヴァンストン。共同プロデュースを務める傍ら、鍵盤やシンセ・ベース、ドラム・プログラムなどを兼任。まさに本作完成の立役者となった。アルバム冒頭からバグパイプが響き渡って、エンヤトット〜なリズムが鳴り始めて意表を突かれるが、このシンセのバグパイプやアイリッシュ・ドラムも、ヴァンストンの仕業。<I Can Do Without>で共演するのは、ブルース・ギタリスト兼シンガーのジョニー・ラング。前述<My Old School>は、当初スティーヴン・タイラー(エアロスミス)にヴォーカルを依頼したが、スカンクが歌うデモを聴いて、「素晴らしい。自分で歌うべき」と言われたという曰く付き。短いながらも印象的なオルガン・ソロは、デヴィッド・ペイチのプレイである。

また、深淵な<My Place In The Sun>はマイケル・マクドナルドとのペンで、もちろんマイケル当人がリード・ヴォーカル。他にもダンの<Do It Again>のインスト・カヴァー、スカンクがギターを始めるキッカケだったというヴェンチャーズのレパートリー<Apache>、ベット・ミドラーの代表曲<Rose>のカヴァーなども。ラストのアルバム・タイトル曲<Speed Of Heat>は、中途半端なロック・ギタリストが裸足で逃げ出しそうなハード・ロック・ギターが炸裂する。

全体として、もっとジャズ寄りに攻めてくるかと思いきや、意外にも豪快な発汗系ロック・チューンが多くて、やっぱりこの人自由だわ〜、を実感。以下来日公演も要チェックで。

8月13〜15日 ビルボードライブ東京
8月17日 ビルボードライブ横浜