ブラジルから訃報。作編曲家・ピアノ奏者のジョアン・ドナートが、17日、リオデジャネイロの病院で亡くなった。死因は発表されていないが、少し前から肺炎で入院していたという。発表したのは、ドナートの公式SNSアカウント。享年88歳だった。
ジョアン・ドナートこと Joao Donato de Oliveira Netoは、1934年、ボリビアに近いアマゾン奥地のアクレ州生まれ。その後リオデジャネイロに移り、50年代に入って本格的な音楽活動を始めた。56年にアントニオ・カルロス・ジョビンのプロデュースで初アルバムを発表。しかし3年後にはブラジルを離れ、カリフォルニアを拠点に。そのためブラジル国内のボサノヴァ・ムーヴメントには立ち会えず。しかしジャズ志向が強く、スタン・ケントンが大好きだったドナートは、米国でモンゴ・サンタマリアやカル・ジェイダー、ティト・プエンテ、バド・シャンクらのバンドに参加していた。
そうした中で、ブラジルに一時帰国して制作したのが、62年の『SAMBOU, SAMBOU』。ジョアン・ジルベルトに呼ばれて一緒にヨーロッパをツアーして回ったのが、翌73年のことである。その後USに戻り、65年にはクラウス・オガーマンのアレンジで『THE NEW SOUND OF BRAZIL』を制作。ルイス・ボンファやカルロス・リアらブラジル勢とUSミュージシャンが交流した、ラウンジ志向のボサノヴァ・アルバムだ。
70年になると、トミー・リピューマがプロデューサーを務めるブルー・サムがドナートに接近。『A BAD DONATO』が作られる。オリジリナル盤には、"Joao Donato's psychedelic funky experience" と記載があり、まさに時代を反映したドナートの悪ノリ・ファンキー実験室な趣き。エレキ・ピアノをメインに弾き倒し、クロスオーヴァーな時代を先取りした。参加ラインナップではオスカー・カストロ・ネヴィス(g)やドン・ウン・ロマン(ds)、バド・シャンク(flute)ジョー・ポーカロ(perc)らの名が目立つが、デオダートもアレンジで協力しているらしい(クレジットなし)。レア・グルーヴの時代を通過した今は、コレが一番シックリくる。この頃のドナートは、ジェイムス・ブラウンやレッド・ツェッペリンといった異ジャンルの音楽を聴き漁り、好奇心旺盛なところを見せていたそうだ。
その後72年にブラジルへ帰国。すぐにマルコス・ヴァーリの協力を得て制作したのが、初の歌モノ・アルバム『QUEM E QUEM』。75年には、今度はジルベルト・ジルのサポートで、ヴォーカル・アルバム第2弾『LUGAR COMUM』を出している。
ドナートがブラジルにやってきたマイケル・フランクスのレコーディングに参加したのも、この頃。繋いだのは、言うまでもなくリピューマだ。
「ワーナー・ブラザーズがジョビンと契約しようとしていた時期だった。彼はニューヨークに滞在していて、トミーが会いに行くと言うので、頼み込んで同行させてもらったんだ。一緒にディナーを取ったよ。忘れもしない75年11月のことだ。『THE ART OF TEA』はまだ発表前だったけど、レコーディングは8月に終わっていて、トミーはそのラフ・ミックスをジョビンに聴かせた。彼は私の音楽を気に入ってくれて、君はブラジルで録音したほうがいい、と言ってくれたんだ」(06年のマイケル・フランクス・インタビューより抜粋)
それが実現したのが、77年『SLEEPING GYPSY』のリオ・セッション。元々マイケルはリピューマと契約する前から『A BAD DONATO』を愛聴していた。だから「ブラジルへ行けるなら、是非ドナートとも演ってみたい、とトミーにお願いした」そうだ。
…とはいえその後のドナートは半ば隠遁してしまい、一線に復帰したのは90年代末から。それからは様々なレーベルに吹き込みを残し、精力的に活動していた。日本では小野リサの95年のアルバム『Minha Saudade(サウダージ)』に参加し、ツアーにも同行していたことが知られる。
Rest in Peace...
そうした中で、ブラジルに一時帰国して制作したのが、62年の『SAMBOU, SAMBOU』。ジョアン・ジルベルトに呼ばれて一緒にヨーロッパをツアーして回ったのが、翌73年のことである。その後USに戻り、65年にはクラウス・オガーマンのアレンジで『THE NEW SOUND OF BRAZIL』を制作。ルイス・ボンファやカルロス・リアらブラジル勢とUSミュージシャンが交流した、ラウンジ志向のボサノヴァ・アルバムだ。
70年になると、トミー・リピューマがプロデューサーを務めるブルー・サムがドナートに接近。『A BAD DONATO』が作られる。オリジリナル盤には、"Joao Donato's psychedelic funky experience" と記載があり、まさに時代を反映したドナートの悪ノリ・ファンキー実験室な趣き。エレキ・ピアノをメインに弾き倒し、クロスオーヴァーな時代を先取りした。参加ラインナップではオスカー・カストロ・ネヴィス(g)やドン・ウン・ロマン(ds)、バド・シャンク(flute)ジョー・ポーカロ(perc)らの名が目立つが、デオダートもアレンジで協力しているらしい(クレジットなし)。レア・グルーヴの時代を通過した今は、コレが一番シックリくる。この頃のドナートは、ジェイムス・ブラウンやレッド・ツェッペリンといった異ジャンルの音楽を聴き漁り、好奇心旺盛なところを見せていたそうだ。
その後72年にブラジルへ帰国。すぐにマルコス・ヴァーリの協力を得て制作したのが、初の歌モノ・アルバム『QUEM E QUEM』。75年には、今度はジルベルト・ジルのサポートで、ヴォーカル・アルバム第2弾『LUGAR COMUM』を出している。
ドナートがブラジルにやってきたマイケル・フランクスのレコーディングに参加したのも、この頃。繋いだのは、言うまでもなくリピューマだ。
「ワーナー・ブラザーズがジョビンと契約しようとしていた時期だった。彼はニューヨークに滞在していて、トミーが会いに行くと言うので、頼み込んで同行させてもらったんだ。一緒にディナーを取ったよ。忘れもしない75年11月のことだ。『THE ART OF TEA』はまだ発表前だったけど、レコーディングは8月に終わっていて、トミーはそのラフ・ミックスをジョビンに聴かせた。彼は私の音楽を気に入ってくれて、君はブラジルで録音したほうがいい、と言ってくれたんだ」(06年のマイケル・フランクス・インタビューより抜粋)
それが実現したのが、77年『SLEEPING GYPSY』のリオ・セッション。元々マイケルはリピューマと契約する前から『A BAD DONATO』を愛聴していた。だから「ブラジルへ行けるなら、是非ドナートとも演ってみたい、とトミーにお願いした」そうだ。
…とはいえその後のドナートは半ば隠遁してしまい、一線に復帰したのは90年代末から。それからは様々なレーベルに吹き込みを残し、精力的に活動していた。日本では小野リサの95年のアルバム『Minha Saudade(サウダージ)』に参加し、ツアーにも同行していたことが知られる。
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