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毎月寄稿しているALFA MUSIC公式note【アルファミュージック考現学】。1月末に、『ALFA+アルファ〜リアル・クロスオーヴァー進化論』が更新されました。書いたのは、上掲ジャケ写の通り、イエロー・マジック・オーケストラ。クロスオーヴァー目線で書いているシリーズなので、自ずと時代は結成直後になります。

2作目『SOLID STATE SURVIVOR』の大ブレイクと同時に、テクノ・ポップという言葉が急速に広まって、P-MODELやヒカシュー、プラスティックスなんて後継グループが登場。でもYMOのデビュー・アルバムが出た当時は、 “テクノ” なんて言葉は一般的ではなかった。wikiを見ると、“テクノ・ポップ”という言葉の登場は、その手の先駆者として知られるクラフトワーク『MAN MACHINE(人間解体)』のレビュー原稿とされる。が、そのアルバムの英国発売が78年5月。国内リリースはそこから数ヶ月遅れたはずだから、YMOのデビューとはほぼ同時である。だから、YMOをどうやって売り出すか。アルファのスタッフは頭を悩ませ、それまでのメンバーの活動状況から、一番近そうな“フュージョン” というレッテルを使った。

今ではフュージョンとクロスオーヴァーは同義語として扱われるが、リアルタイムの肌感覚としては、クロスオーヴァーというと異種格闘技のようなジャンル・ミックス、つば迫り合いのイメージ。フュージョンというと化学反応が進んでひとつに融合し、音楽としての完成度が高まった感覚がある。そうした意味では、デビュー時のYMOはまだまだクロスオーヴァー的だが、コンピューターを使ったまったく斬新なモノだったから、新しくてフレッシュな言葉がフィットしたのだろう。ま、その先の話は、是非 alfa note の方で。

逆に原稿の長さの関係から、そちらであまり展開できなかったのが、トミー・リピューマの話である。この当時、リピューマはA&M傘下でHorizon Labelの運営を任されており、そのA&Mの日本配給をアルファ・レコードが担っていた。この78年暮れ、アルファは新宿・紀伊国屋ホールで『アルファ・フュージョン・フェスティヴァル’78』というイベントを開催。そこには吉田美奈子や大村憲司らと共に、Horizonからデビューしたニール・ラーセンが出演。それに立ち会うべく、トミー・リピューマも来日していた。そして、やはりこのイベントに出演した細野晴臣(&イエロー・マジック・オーケストラ)を気に入り、YMOのUSデビューが決まっていく。

…ただし後日談として、このストーリーが作られたものだったことが明らかに。実際は、事前にトミー・リピューマとアルファのトップ:村井邦彦の間でUSデビューの話は決まっていたらしい。でもいずれにせよ、ジャズ系プロデューサーの印象が強いリピューマがYMOの世界デビューに加担したのは間違いなく、なかなかに興味深い。US版では<東風>に吉田美奈子のヴォーカル・パートが追加され、アル・シュミットが全体をリミックスして、若干派手でシャープなサウンドに仕上げている。電脳芸者のアートワークは、ウェザー・リポートなどを担当していたルー・ビーチに拠るもの。YMOの初US公演はチューブスの前座としてだったが、彼らも当時はA&M所属。この辺りもすべてリピューマの采配だろう。YMOが最初に広く話題になり始めたのも、このUSデビューがキッカケだったはずで、自分が最初に聴いたのは、このUS仕様の国内盤だった記憶がある。それから間髪入れず『SOLID STATE SURVIVOR』がリリースされた。

しかし大ヒットした2作目『SOLID STATE SURVIVOR』は、何故か US発売されず…。これは運営面の問題からリピューマがごく短期でHorizonを閉鎖し、A&Mを離れてワーナーへ移籍してしまったため、らしい。またチューブスのシンセ奏者だったマイケル・コットンは、YMOと共演して彼らのライヴに強い衝撃を受け、その前後からシンセ/エレクトロニクスのプログラム研究・開発などに没頭。スティーヴ・ポーカロらと親しくなって、L.A.シーンでも一目置かれる存在となった。近年はコンピュータを使った舞台演出やヴィジュアル・デザインの専門家として活躍中で、マイケル・ジャクソン『THIS IS IT』ツアーのステージ・デザインも彼の仕事だったそう。

教授やユキヒロさんは天に昇ってしまったけれど、その爪痕はアチコチに刻まれているのだな。