月代わりで出演しているラジオ番組『シティポップ・コレクション』7月前半2週分の収録日@都内某スタジオ。でも夕方スタートだったので、突然思い立って、 映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』を再度鑑賞。こちらで紹介したように、数ヶ月前に試写会で観ているけれど、シアターでの試写会ではなかったので序盤に音響面の不備があったため、もう一度ちゃんと観たいと思っていたのと、ほとんどの上映館が今週で軒並み終了してしまうため、滑り込みで。
2度目の鑑賞ゆえに、基本的によくできたドキュメンタリーという印象が深くなったし、労作であることも殊更に実感できた。とにかく音楽的な振り幅の大きい人だったし、その交友関係は音楽業界人にとどまらず、料理人や文化人にも及んでいた加藤和彦だから、そのエピソードを2時間ほどの枠に収めるのは土台ムリな話で。
ストーリー的に見れば、ザ・フォーク・クルセダーズ〜サディスティック・ミカ・バンド〜初期ソロ活動〜ヨーロッパ3部作という流れに重点が置かれ、80年代中盤以降の足跡はバッサリ切られている。だから再編及び再々編ミカ・バンドには触れられず、個人的にヨーロッパ3部作より好きだった『あの頃、マリーローランサン』や『Beloro California』あたりは完全スルー。最初に観た時はそこに驚き、「あぁ、スッ飛ばしちゃうのかぁ…」と苦々しく思ったりしたけれど。でも、自伝的な『あの素晴しい日々』の原書『エゴ』がそもそもそういう作りだったし、トノバンにまつわるトピックを全部拾い上げて映画にしていたら、逆に重要なところが埋もれてしまいかねない。アレもない・コレもない、という批判的論評も目にしていて、ひとつひとつの言い分は自分もよく理解できるものの、結局はプライオリティや取捨選択、あるいは広報面での見せ方の問題ではないのか。
そもそもこの映画、クラウド・ファンディングで制作資金集めをするところからスタートしていたワケで、まずは加藤和彦という音楽家をもう少し広く知ってもらおう、というのが大前提。タイトルだって、『加藤和彦とその時代』と謳っていて、60年代から90年代の日本の音楽史を変えた、というところにスポットを当てている、とある。なので、90年代以降のワークスはなくても不思議じゃない。トノバンのキャリア全部を網羅する意図など、最初からなかったのだ。なのにキャリアを網羅したかのように受け取られてしまった点に、多々の誤解を生む要因があった。
例えば、トノバンは今が旬のシティポップへの影響力がスゴく大きかった。けれどこの映画では、竹内まりやのデビューに関わったコトに、ほぼ集約されている。加藤和彦=安井かずみコンビ最大のヒット曲とされる飯島真理<愛・おぼえていますか>は、マクロスの主題だからアニメ・ブームで存在感を強めたけれど、90年代までの日本の音楽史的に、果たして何かの大きな足跡を残したのか?等など。つまり、作り手側と来館者の間で、作品に対する認識の齟齬があったというコト。ならばこの映画を悪戯に批判するより、まずコレをトノバンに対するドキュメンタリーの柱に据えて、90年代以降のことや今になって表出してきた影響力の強さは、いま語れる人・語るべき人がそこに肉づけしていく形で、後史的に伝聞されればイイのではないか。
2度目の鑑賞で気づいたのは、フォークル時代の逸話や、ミカ・バンド時代にせがまれて唐突に購入したというロールス・ロイスがある種のメタファーになっていて、一流シェフが提供する創作料理の精神に結びついていること。料理でもファッションでも一流を愛し、一流を知ることで新しい創造にリアリティを与えていく。傍目には奇をてらったり、意表を突いただけに見えても、時間が経てば それが広く理解されていくのだ。
一見、取っ散らかったようにも思えるこの映画が訴えたかったのは、トノバン・ワークスの偉大さより、彼のその稀有な精神性だったのでは? だとすればそれは、彼が自死を選んだ理由にも行き着く。言い換えれば、目先の拝金主義に走る日本の音楽界と、リスナーたちの意識と感性の低下を、トノバンを通じてソフトに糾弾していることにならないか? ちょっと分かりにくいのが難点だけれど…。それとも深読みしすぎ? いずれにしても、まさに不世出の人だったな、加藤和彦は。
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《Tower Records はココから》
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そもそもこの映画、クラウド・ファンディングで制作資金集めをするところからスタートしていたワケで、まずは加藤和彦という音楽家をもう少し広く知ってもらおう、というのが大前提。タイトルだって、『加藤和彦とその時代』と謳っていて、60年代から90年代の日本の音楽史を変えた、というところにスポットを当てている、とある。なので、90年代以降のワークスはなくても不思議じゃない。トノバンのキャリア全部を網羅する意図など、最初からなかったのだ。なのにキャリアを網羅したかのように受け取られてしまった点に、多々の誤解を生む要因があった。
例えば、トノバンは今が旬のシティポップへの影響力がスゴく大きかった。けれどこの映画では、竹内まりやのデビューに関わったコトに、ほぼ集約されている。加藤和彦=安井かずみコンビ最大のヒット曲とされる飯島真理<愛・おぼえていますか>は、マクロスの主題だからアニメ・ブームで存在感を強めたけれど、90年代までの日本の音楽史的に、果たして何かの大きな足跡を残したのか?等など。つまり、作り手側と来館者の間で、作品に対する認識の齟齬があったというコト。ならばこの映画を悪戯に批判するより、まずコレをトノバンに対するドキュメンタリーの柱に据えて、90年代以降のことや今になって表出してきた影響力の強さは、いま語れる人・語るべき人がそこに肉づけしていく形で、後史的に伝聞されればイイのではないか。
2度目の鑑賞で気づいたのは、フォークル時代の逸話や、ミカ・バンド時代にせがまれて唐突に購入したというロールス・ロイスがある種のメタファーになっていて、一流シェフが提供する創作料理の精神に結びついていること。料理でもファッションでも一流を愛し、一流を知ることで新しい創造にリアリティを与えていく。傍目には奇をてらったり、意表を突いただけに見えても、時間が経てば それが広く理解されていくのだ。
一見、取っ散らかったようにも思えるこの映画が訴えたかったのは、トノバン・ワークスの偉大さより、彼のその稀有な精神性だったのでは? だとすればそれは、彼が自死を選んだ理由にも行き着く。言い換えれば、目先の拝金主義に走る日本の音楽界と、リスナーたちの意識と感性の低下を、トノバンを通じてソフトに糾弾していることにならないか? ちょっと分かりにくいのが難点だけれど…。それとも深読みしすぎ? いずれにしても、まさに不世出の人だったな、加藤和彦は。
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