各種SNSがクインシー・ジョーンズへのお悔やみポストで溢れかえっている。それだけ音楽シーンに絶大な影響を及ぼしてきたワケで、今更自分が書くまでもないか、と思っていたが、速報だけでは自身の中でどうも踏ん切りがつかない。だからと言ってマイコーとかの関連作を持ち出すと収拾がつかなくなりそうなので、敢えてこのド定番。自分が意識してクインシーを聴いた初めてのアルバムで、タイミングとしては81年の来日の少し前。「ヘェ〜、クインシー来るんだ…」と羨みつつ、プロデューサーってライヴで何を演るんだろう…、と訝しく思ったのを覚えている。TVの中継で見て、まさかオーケストラの前で踊っているだけ、とは思わなかったが…(←だけじゃなく、一応コンダクターだったんだが…(苦笑)
当時の来日メンバーは、クインシー御大以下、ジョン・ロビンソン (ds), ルイス・ジョンソン (b), カルロス・リオス (g), グレッグ・フィリンゲインズ/ロッド・テンパートン(kyd), オリー・E・ブラウン (perc), トゥーツ・シールマンス (hormonica), ジェリー・ヘイ (tr)、ピート・クリストーブ/ジェローム・リチャードソン (sax) に、メイン・シンガーとしてパティ・オースティンとジェイムス・イングラム。コーラスには当時の奥様ペギー・リプトンもいた。ほぼほぼ『愛のコリーダ( THE DUDE)』の主要レコーディング・メンバー揃い踏みで、スティーヴィー・ワンダーやハービー・ハンコックらゲスト陣を除けば、売れっ子スティーヴ・ルカサーの不在が目立ったくらい。日本側からはオーケストラとして、原信夫とシャープス&フラッツが参加した。ジョン・ロビンソン やフィリンゲインズを意識するようになったのは、やはりこの頃のクインシー・ワークスがキッカケだった。
<If I Ever Lose This Heaven>や<Everything Must Change>が収録され、ミニー・リパートンやリオン・ウェア、アル・ジャロウらが参加した『BODY HEAT』(74年)、ブラザーズ・ジョンソンを世に出した『MELLOW MADNESS』(75年)、スタッフの面々などニューヨークの一流どころを起用した『STUFF LIKE THAT』(78年)など、リーダー作の名盤は多かれど、自分の場合はやっぱりコレ。ジェイムス・イングラムを知るキッカケだったし、CTI絡みで名前だけ知ってたパティ・オースティンとも出会えた。ロッド・テンパートンの書き下ろしに、チャス・ジャンケル<愛のコリーダ>、バラードの<One Hundred Ways>と、収録曲の粒も揃っていたな。その昔はトランペット奏者だったクインシーだが、制作ワークを始めてからは、こうした選曲とミュージシャン/スタッフのキャスティティングが絶妙だった。お抱えエンジニア:ブルース・スウェディーン(20年没)の存在も忘れがたい。
楽曲的に忘れられないのは<Just Once>、ジェイムス・イングラムを世に出した名曲だ。故にクインシーがジェイムスを発掘したと思われがちだけれど、実はこの曲はバリー・マンとシンシア・ワイルが曲を書き上げた時に、R&Bフィーリングがある曲だからと、周囲で評判の良かったジェイムスをデモ・シンガーに起用したのが先である。2人はジョージ・ベンソンに提供するつもりで<Just Once>を書いたそうだが、だったら当時ベンソンをプロデュースしていたクインシーに送ってみようと(『GIVE ME THE NIGHT)のことだろう)、送り先を変えた。2人はジェイムスのデモ歌唱に感銘を受け、その歌をクインシーに聴かせようと考えたのだ。そして案の定クインシーはジェイムスを気に入り、レコーディングに起用。完成版は彼らのデモをほとんどそのまま踏襲したものになっている。このデモは、バリー・マン&シンシア・ワイルが17年に出したデモ集に収録。ついでに言うと、セルジオ・メンデスのヒット曲として知られる<Never Gonna Let You Go>のデモ・ヴァージョンもジェイムスが歌っており、何らかの事情でジョー・ピズーロがデモをなぞって歌うことになったらしい。
プロデュースを手掛るようになった若き日のデヴィッド・フォスターに、「自分の名前をプロデューサーとしてクレジットするなら、一切妥協はするな」と教えたクインシー。その言葉を心に刻んでレコーディングに臨んだのが、フォスターの出世作となる『CHICAGO 16』だ。またインタビューアーに “大ヒットを作るコツ” を尋ねられたクインシーは、「シーンの半歩先を行くこと」と答えている。一歩ではなく半歩。その匙加減が重要で、一般リスナーを置いてけぼりにしない極意なのだ。
80年代後半以降、自らはあまり表舞台に出ず、スタッフに指示を飛ばして現場を委ねることが増えたクインシー。でもその薫陶は、多くの後継者へと伝えられていったに違いない。
改めて Rest in Peace...。ご苦労様でした。安らかに。
<If I Ever Lose This Heaven>や<Everything Must Change>が収録され、ミニー・リパートンやリオン・ウェア、アル・ジャロウらが参加した『BODY HEAT』(74年)、ブラザーズ・ジョンソンを世に出した『MELLOW MADNESS』(75年)、スタッフの面々などニューヨークの一流どころを起用した『STUFF LIKE THAT』(78年)など、リーダー作の名盤は多かれど、自分の場合はやっぱりコレ。ジェイムス・イングラムを知るキッカケだったし、CTI絡みで名前だけ知ってたパティ・オースティンとも出会えた。ロッド・テンパートンの書き下ろしに、チャス・ジャンケル<愛のコリーダ>、バラードの<One Hundred Ways>と、収録曲の粒も揃っていたな。その昔はトランペット奏者だったクインシーだが、制作ワークを始めてからは、こうした選曲とミュージシャン/スタッフのキャスティティングが絶妙だった。お抱えエンジニア:ブルース・スウェディーン(20年没)の存在も忘れがたい。
楽曲的に忘れられないのは<Just Once>、ジェイムス・イングラムを世に出した名曲だ。故にクインシーがジェイムスを発掘したと思われがちだけれど、実はこの曲はバリー・マンとシンシア・ワイルが曲を書き上げた時に、R&Bフィーリングがある曲だからと、周囲で評判の良かったジェイムスをデモ・シンガーに起用したのが先である。2人はジョージ・ベンソンに提供するつもりで<Just Once>を書いたそうだが、だったら当時ベンソンをプロデュースしていたクインシーに送ってみようと(『GIVE ME THE NIGHT)のことだろう)、送り先を変えた。2人はジェイムスのデモ歌唱に感銘を受け、その歌をクインシーに聴かせようと考えたのだ。そして案の定クインシーはジェイムスを気に入り、レコーディングに起用。完成版は彼らのデモをほとんどそのまま踏襲したものになっている。このデモは、バリー・マン&シンシア・ワイルが17年に出したデモ集に収録。ついでに言うと、セルジオ・メンデスのヒット曲として知られる<Never Gonna Let You Go>のデモ・ヴァージョンもジェイムスが歌っており、何らかの事情でジョー・ピズーロがデモをなぞって歌うことになったらしい。
プロデュースを手掛るようになった若き日のデヴィッド・フォスターに、「自分の名前をプロデューサーとしてクレジットするなら、一切妥協はするな」と教えたクインシー。その言葉を心に刻んでレコーディングに臨んだのが、フォスターの出世作となる『CHICAGO 16』だ。またインタビューアーに “大ヒットを作るコツ” を尋ねられたクインシーは、「シーンの半歩先を行くこと」と答えている。一歩ではなく半歩。その匙加減が重要で、一般リスナーを置いてけぼりにしない極意なのだ。
80年代後半以降、自らはあまり表舞台に出ず、スタッフに指示を飛ばして現場を委ねることが増えたクインシー。でもその薫陶は、多くの後継者へと伝えられていったに違いない。
改めて Rest in Peace...。ご苦労様でした。安らかに。
地味だけどちょっどミステリアスな響きで、クールな曲。
「I Can't Help It」みたいな。
Ivan Linsの曲などは、そこにぴったり填ってたんですね。
本作のタイトル曲「The Dude」なんか、冴えない曲とか
さんざんな評価が当時ありましたけど、これぞ
「Quincy好み」そのものなクールな曲でしたよね。
という訳で追悼にはBros.Johnsonの「Q」を聴いてます。