キング・クリムゾンの創設メンバーの一人にして、作詞家、そしてプロデューサーとしても活動したピート・シンフィールド(本名:ピーター・ジョン・シンフィールド)が、14日に死去した。近年は英国サフォーク州にある海沿いの街オールドバラに住み、BASCA(The British Academy of Songwriters, Composers and Authors) に所属。ソングライター・コミュニティーで積極的に活動していたそう。死因は明らかにされていないが、05年に心臓手術を受け、ここ数年は体調が思わしくなかったらしい。享年80。
ピート・シンフィールドは1943年、西ロンドンのプットニー生まれ。アート・スクール入学の頃から本の虫になり、特に詩集を読み漁るようになった。16歳で学校をドロップアウトし、一旦は就職するが、20歳代になってヨーロッパを放浪。モロッコやスペインを経由してロンドンに戻り、市場の露店でハンドメイドの布製品や衣服、ランプシェード、絵画などを売って生計を立てながら、詩を書き続けた。67年頃、あるバンドのメンバーと知り合って詩の才能を高く評価されることに。それがイアン・マクドナルドで、彼の紹介でマイケル&ピーター・ジャイルズ、ロバート・フリップと知り合い、キング・クリムゾン結成に立ち会うことになる。ただし、何とかギターが弾ける程度だったピートは、当初はローディとして参加。すぐに作詞およびライヴのライティング、アートワーク担当として正式メンバーに迎えられた。アートなこの時代は、幻想的でサイケデリックなライト・ショウがライヴの重要な構成要素で、そこでユニークな才能を発揮することを期待されたのだ。一説によれば、キング・クリムゾンという名前もピートの発案だったとか。
しかし、シュールな歌詞でバンドに貢献したピートも、急速にジャズ色を強めていくフリップとは確執が深まり、4作目『ISLAND』(71年)発表後のU.S.ツアーを最後にバンド離脱。クリムゾンのマネージメントだったE.G.プロダクションで、ロキシー・ミュージックのデビューをサポートすることになる。この頃から早々にクリムゾンを離れたグレッグ・レイクとの関係が深まり、エマーソン・レイク&パーマーが創設したマンティコア・レーベルのスタッフに。ELPに詞を提供しつつ、マンティコア入りしたイタリアのPFM、多国籍メンバーで構成されたロック・オーケストラのエスペラント(後にリトル・リヴァー・バンドに参加するグレン・シャロックが在籍)をプロデュース。ピート自身、唯一のソロ作となる『STILL』をマンティコアから発表したのも、73年のことだ。またグレッグ・レイクがピートと共作し、75年にソロ名義でリリースした<I Believe In Father Christmas>が大ヒットし、全英2位を記録。今でも英国での定番クリスマス・ソングになっている。
このヒットで潤ったピートは、税金逃れの意味もあって、しばしイビサ島に逃避行。しかし彼が80年にロンドンへ戻る頃には、音楽シーンはすっかり様変わりしており、かつて知ったるプログレ・シーンのバンドは軒並み苦戦を強いられていた。そこで彼は音楽出版社の仲介で、ポップス系のソングライター/プロデューサーであるアンディ・ヒルとコンビを組み、バックス・フィズを英ヒット・チャートの常連に送り込む。そして新たにヒット・メイカーとしての地位を確立する一方、そこからは単発的な楽曲提供が増えてくる。それでもレオ・セイヤー、ルル、ファイヴ・スター、アグネッタ、シェール、エディ・マネー、バリー・マニロウ、バッド・イングリッシュと、世界的ビッグ・ネームのオンパレード。セリーヌ・ディオンには世界デビュー前から楽曲提供していたし、ダイアナ・ロス、クリフ・リチャード、ベット・ミドラーらレジェンドにも楽曲を書いている。そしてデヴィッド・フォスター『RIVER OF LOVE』(90年)では、故ウォーレン・ウィービーが歌った好曲<Walk Away>がピートとアンディのコラボ楽曲。ピーター・セテラの92年作『WORLD FALLING DOWN』では、2曲をフォスターがプロデュース。それ以外をアンディが制作し、うち1曲をピートと共作していた。
ピート・シンフィールドといえば、クリムゾン及びプログレ人脈の作詞家、そう思い込んでいた音楽ファンが多いはず。でも実際は、AOR方面にも結構所縁のある詩人だった。とはいえポップ期のそれは、クリムゾン期の幻想的で印象深い詞には到底敵うモノではない気がする。でも意外にも、そういう柔軟性を持った才人だったのだな。
Rest in Peace...
《amazon》
《Tower Records はココから》
しかし、シュールな歌詞でバンドに貢献したピートも、急速にジャズ色を強めていくフリップとは確執が深まり、4作目『ISLAND』(71年)発表後のU.S.ツアーを最後にバンド離脱。クリムゾンのマネージメントだったE.G.プロダクションで、ロキシー・ミュージックのデビューをサポートすることになる。この頃から早々にクリムゾンを離れたグレッグ・レイクとの関係が深まり、エマーソン・レイク&パーマーが創設したマンティコア・レーベルのスタッフに。ELPに詞を提供しつつ、マンティコア入りしたイタリアのPFM、多国籍メンバーで構成されたロック・オーケストラのエスペラント(後にリトル・リヴァー・バンドに参加するグレン・シャロックが在籍)をプロデュース。ピート自身、唯一のソロ作となる『STILL』をマンティコアから発表したのも、73年のことだ。またグレッグ・レイクがピートと共作し、75年にソロ名義でリリースした<I Believe In Father Christmas>が大ヒットし、全英2位を記録。今でも英国での定番クリスマス・ソングになっている。
このヒットで潤ったピートは、税金逃れの意味もあって、しばしイビサ島に逃避行。しかし彼が80年にロンドンへ戻る頃には、音楽シーンはすっかり様変わりしており、かつて知ったるプログレ・シーンのバンドは軒並み苦戦を強いられていた。そこで彼は音楽出版社の仲介で、ポップス系のソングライター/プロデューサーであるアンディ・ヒルとコンビを組み、バックス・フィズを英ヒット・チャートの常連に送り込む。そして新たにヒット・メイカーとしての地位を確立する一方、そこからは単発的な楽曲提供が増えてくる。それでもレオ・セイヤー、ルル、ファイヴ・スター、アグネッタ、シェール、エディ・マネー、バリー・マニロウ、バッド・イングリッシュと、世界的ビッグ・ネームのオンパレード。セリーヌ・ディオンには世界デビュー前から楽曲提供していたし、ダイアナ・ロス、クリフ・リチャード、ベット・ミドラーらレジェンドにも楽曲を書いている。そしてデヴィッド・フォスター『RIVER OF LOVE』(90年)では、故ウォーレン・ウィービーが歌った好曲<Walk Away>がピートとアンディのコラボ楽曲。ピーター・セテラの92年作『WORLD FALLING DOWN』では、2曲をフォスターがプロデュース。それ以外をアンディが制作し、うち1曲をピートと共作していた。
ピート・シンフィールドといえば、クリムゾン及びプログレ人脈の作詞家、そう思い込んでいた音楽ファンが多いはず。でも実際は、AOR方面にも結構所縁のある詩人だった。とはいえポップ期のそれは、クリムゾン期の幻想的で印象深い詞には到底敵うモノではない気がする。でも意外にも、そういう柔軟性を持った才人だったのだな。
Rest in Peace...
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《Tower Records はココから》
ピートは名前は有名ですが顔写真も
滅多に見なかったですもんね。
今回の日記の後半部分、AOR、
とりわけD・フォスターとの
かかわりなどは殆ど知りませんでした。
マーキー誌にそんなの出てなかったし
これで「宮殿」で存命なのはフリップ翁と
M・ジャイルスだけになりましたか…
このあと「Still」を聴いてしのびます。