大物プロデューサー:リチャード・ペリーの訃報が入った。クリスマス・イヴの24日、L.A.の病院で息を引き取ったという。直接の原因は心停止だが、しばらく前からパーキンソン病を患っていたらしい。享年82。
ニューヨークはブルックリン生まれ。両親は楽器商で音楽講師でもあったため、幼少期からピアノ、ギター、ドラム、ベース、オーボエなどを学んだ。10代の頃はドゥワップ・グループでベース・パートを担当。その後グループはMCA傘下のコーラル・レコードと契約し、ジ・エスコーツの名で62~63年にシングル7枚をリリースしている。それからカーマ・スートラ・レーベルのマーケティング部門で働き始め、ケニー・ヴァンスと親交を深めたりしながら、プロデュース業に移行。キャプテン・ビーフハートやエラ・フィッツジェラルド、ファッツ・ドミノらを手掛けたあと、L.A.に拠点を移し、タイニー・ティムで初のトップ10アルバムを出すなど、順調なスタートを切った。
そこからは上掲の通り、ニルソン、カーリー・サイモン、バーブラ・ストライサンド、リンゴ・スター、アート・ガーファンクル、レオ・セイヤー、ダイアナ・ロス、マンハッタン・トランスファーなどを幅広くプロデュース、ヒット請負人的イメージがあった。かくいう自分も、ペリーがビートルズ人脈に関わっていたことで、早くから名前を知っていて。思うにジョージ・マーティン、フィル・スペクターの次くらいにインプットされた専業プロデューサーであり、かのクインシー・ジョーンズよりも確実に早かった。また各アーティストに対し、連作や復帰などのカタチで複数作品に絡むケースが多く、それだけ安定した作品作りができて、仕事がしやすいプロデューサーでもあったのだろう。
78年に自ら創設したプラネット・レコードでは、移籍してきたポインター・シスターズをモダンに蘇らせ、一躍スターダムに。他にもビル・メドレーのような大物からマーヴァ・キング、グレッグ・フィリンゲインズ、ナイト、スウィング、クリトーンズなど、ミュージシャン受けの良いアーティストを次々デビューさせた。が、商業的な二の矢は放てず、82年にレーベルをRCAに売却する。制作ワークも徐々にペースが落ち、フル・アルバムを手掛けることこそ無くなったものの、その後もパティ・ラベルやドナ・サマー、ジェフリー・オズボーン、ニール・ダイアモンド、フリオ・イグレシアスなどとコラボレイト。ゼロ年代に入ってスタートしたロッド・スチュワート『GREAT AMERICAN SONGBOOK』シリーズでは、ほとんどのアルバムに制作参加。往年の手腕を遺憾なく発揮していた。
クインシーといい、リチャード・ペリーといい、最後まで大物の訃報が止まない年の瀬よ…
Rest in Peace...
そこからは上掲の通り、ニルソン、カーリー・サイモン、バーブラ・ストライサンド、リンゴ・スター、アート・ガーファンクル、レオ・セイヤー、ダイアナ・ロス、マンハッタン・トランスファーなどを幅広くプロデュース、ヒット請負人的イメージがあった。かくいう自分も、ペリーがビートルズ人脈に関わっていたことで、早くから名前を知っていて。思うにジョージ・マーティン、フィル・スペクターの次くらいにインプットされた専業プロデューサーであり、かのクインシー・ジョーンズよりも確実に早かった。また各アーティストに対し、連作や復帰などのカタチで複数作品に絡むケースが多く、それだけ安定した作品作りができて、仕事がしやすいプロデューサーでもあったのだろう。
78年に自ら創設したプラネット・レコードでは、移籍してきたポインター・シスターズをモダンに蘇らせ、一躍スターダムに。他にもビル・メドレーのような大物からマーヴァ・キング、グレッグ・フィリンゲインズ、ナイト、スウィング、クリトーンズなど、ミュージシャン受けの良いアーティストを次々デビューさせた。が、商業的な二の矢は放てず、82年にレーベルをRCAに売却する。制作ワークも徐々にペースが落ち、フル・アルバムを手掛けることこそ無くなったものの、その後もパティ・ラベルやドナ・サマー、ジェフリー・オズボーン、ニール・ダイアモンド、フリオ・イグレシアスなどとコラボレイト。ゼロ年代に入ってスタートしたロッド・スチュワート『GREAT AMERICAN SONGBOOK』シリーズでは、ほとんどのアルバムに制作参加。往年の手腕を遺憾なく発揮していた。
クインシーといい、リチャード・ペリーといい、最後まで大物の訃報が止まない年の瀬よ…
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