スワンプ・ロック・シーンの重鎮の一人、スタックスでも活躍したミュージシャンで、ソングライター/プロデューサーのドン・ニックスが、12月31日、米テネシー州ジャーマンタウンにある自宅で就寝中に死去。原因は明らかにされていないが、以前から黄斑変性症を患っており、近年は視力を失っていたそうだ。享年83。
ドン・ニックスことウィリアム・ドナルド・ニックスは、1941年テネシー州メンフィス生まれ。幼い頃から教会の聖歌隊で歌い始め、スティーヴ・クロッパー (g) やドナルド・ダック・ダン (b) はハイスクール時代からの同級生で、一緒にガレージ・バンドを組んでいたという。卒業後は従軍を経て、クロッパーやダンが参加していたザ・ロイヤル・スペーズにサックス奏者として加入。このバンドが、やがてマーキーズと名を変え、メンバーの親戚筋が所有していたスタジオのハウス・バンド的存在になった。そして61年にリリースしたマーキーズのデビュー・シングル<Last Night>が、思い掛けず全米3位の大ヒット。
それを機に所属レーベルは、オーナーであるジム・スチュワート(Jim Stewart)とエステル・アクストン(Estelle Axton)の名をとって、STAXと改名。白人がR&Bをプレイするという画期的存在だったマーキーズは、ブッカー・T.&ザ・MGズ、メンフィス・ホーンへと発展していくことになる。
一方ニックスはレオン・ラッセルと親交を深め、L.A.の彼の下でプロデュースやエンジニアリングを習得。69年にメンフィスへ戻るとスタックスのハウス・プロデューサーとなり、デラニー&ボニーのデビュー作『HOME』などをプロデュース。70年にはレオンが立ち上げた新レーベル:シェルターと契約し、マッスル・ショールズでレコーディングした初のソロ・アルバム『IN GOD WE TRUST』(71年)を発表。高い評価を受けるも商業的成功には至らず、エレクトラへ移籍してソロ2作目『LIVING BY THE DAYS』(71年)をリリース。マッスル・ショールズ勢にスタックス、レオン・ラッセルのシェルター・ピープル一派まで参加した充実作だったが、これも成功には繋がらなかった。
が、外部ワークスではチョッとした注目を浴びている。同じ71年にプロデュースしたフレディ・キング『GETTING READY』に提供した<Going Down>が第2期ジェフ・ベック・グループに取り上げられ、大きな話題になったのだ。元々はこの曲は、ニックスが69年に制作したモロク(Moloch)に書いたもので、その後も英国のチキン・シャック、J.J.ケール、アレクシス・コーナー&ザ・スネイプ、ハイドラなど、多くのアーティストが取り上げたり、ザ・フーやローリング・ストーンズがライヴ・レパートリーにしている。ジェフ・ベックはプロデューサーであったスティーヴ・クロッパーに勧められたというのが定説だが、ジェフは殊の外ニックス楽曲を気に入ったようで、ベック・ボガート&アピスのアルバムでも、ニックスのソロ3作目『HOBOS, HEROES AND STREET CORNER CLOWNS』(73年)から<Black Cat Moan>や<Sweet Sweet Surrender>をカヴァー。3曲のプロデュースを当のニックスに委ねるほど信頼を置いていた。日本でドン・ニックスの名が大きく広まったのは、きっとこの時だろう。
他にもジョージ・ハリスンと知り合い(上掲写真)、当時は世界最大とされたチャリティ・イベント:バングラデシュ・コンサートでバック・コーラス陣の仕切り役を担当。クローディア・レニアやドン・プレストンを含む、ソウルフルなヴォーカルで貢献している。ちなみにクローディア・レニアは、ソロ・アルバムも出していた注目の黒人女性シンガーで、アイク&ティナ・ターナーのバック:アイケッツ出身。ストーンズの<Black Sugar>のモデルと言われ、ミック・ジャガーと浮名を流したこともあった。でも実は70年当時、ニックスと短い婚姻関係にあったそうである。
80年代から90年代にかけては、ドラッグ禍で音楽活動を棒に振ってしまったニックスだったが、その後復活。2013年には来日公演も行なっていた。
Rest in Peace...
それを機に所属レーベルは、オーナーであるジム・スチュワート(Jim Stewart)とエステル・アクストン(Estelle Axton)の名をとって、STAXと改名。白人がR&Bをプレイするという画期的存在だったマーキーズは、ブッカー・T.&ザ・MGズ、メンフィス・ホーンへと発展していくことになる。
一方ニックスはレオン・ラッセルと親交を深め、L.A.の彼の下でプロデュースやエンジニアリングを習得。69年にメンフィスへ戻るとスタックスのハウス・プロデューサーとなり、デラニー&ボニーのデビュー作『HOME』などをプロデュース。70年にはレオンが立ち上げた新レーベル:シェルターと契約し、マッスル・ショールズでレコーディングした初のソロ・アルバム『IN GOD WE TRUST』(71年)を発表。高い評価を受けるも商業的成功には至らず、エレクトラへ移籍してソロ2作目『LIVING BY THE DAYS』(71年)をリリース。マッスル・ショールズ勢にスタックス、レオン・ラッセルのシェルター・ピープル一派まで参加した充実作だったが、これも成功には繋がらなかった。
が、外部ワークスではチョッとした注目を浴びている。同じ71年にプロデュースしたフレディ・キング『GETTING READY』に提供した<Going Down>が第2期ジェフ・ベック・グループに取り上げられ、大きな話題になったのだ。元々はこの曲は、ニックスが69年に制作したモロク(Moloch)に書いたもので、その後も英国のチキン・シャック、J.J.ケール、アレクシス・コーナー&ザ・スネイプ、ハイドラなど、多くのアーティストが取り上げたり、ザ・フーやローリング・ストーンズがライヴ・レパートリーにしている。ジェフ・ベックはプロデューサーであったスティーヴ・クロッパーに勧められたというのが定説だが、ジェフは殊の外ニックス楽曲を気に入ったようで、ベック・ボガート&アピスのアルバムでも、ニックスのソロ3作目『HOBOS, HEROES AND STREET CORNER CLOWNS』(73年)から<Black Cat Moan>や<Sweet Sweet Surrender>をカヴァー。3曲のプロデュースを当のニックスに委ねるほど信頼を置いていた。日本でドン・ニックスの名が大きく広まったのは、きっとこの時だろう。
他にもジョージ・ハリスンと知り合い(上掲写真)、当時は世界最大とされたチャリティ・イベント:バングラデシュ・コンサートでバック・コーラス陣の仕切り役を担当。クローディア・レニアやドン・プレストンを含む、ソウルフルなヴォーカルで貢献している。ちなみにクローディア・レニアは、ソロ・アルバムも出していた注目の黒人女性シンガーで、アイク&ティナ・ターナーのバック:アイケッツ出身。ストーンズの<Black Sugar>のモデルと言われ、ミック・ジャガーと浮名を流したこともあった。でも実は70年当時、ニックスと短い婚姻関係にあったそうである。
80年代から90年代にかけては、ドラッグ禍で音楽活動を棒に振ってしまったニックスだったが、その後復活。2013年には来日公演も行なっていた。
Rest in Peace...