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AOR好き、大ショック。82年の名盤『ロンリー・フリーウェイ(MAROONED)』で知られるラリー・リーが、10日、生まれ故郷で現在の住まいでもあるミズーリ州スプリングフィールドで逝ってしまった。死因は明らかにされていないが、いわゆる突然死だったらしい。享年78。彼の出身バンド、オザーク・マウンテン・デアデヴィルスの公式サイトでは、以下のようにコメントしている。
「ラリーは慈悲深く思いやりのある人でした。彼の功績を思い返してみると、彼が世界と友人たちを立派に大切にしていたおかげで、世界はより良い場所になったと信じるようになりました。彼の歌詞は永遠に生き続け、私たちはステージで彼の歌を演奏することで、誇りを持って彼の人生を称え続けていきます」
1947年生まれのラリー・マイケル・リーは、ビッグ・バンドのシンガーだった父親の影響で幼い頃から音楽に親しみ、ロックン・ロールに夢中になってドラムを始めると、12歳でバンド結成。ビートルズの登場にショックを受け、大学をドロップ・アウトするほど音楽にのめり込んだ。4年ほどネイビーに従軍するが、前線に送られることはなかったようで、曲作りを始めたのも、プエルトリコの基地にあった教会のピアノだったそうだ。
帰国後の72年、オザーク・マウンテン・デアデヴィルズを結成。間もなくA&Mのスタッフ・プロデューサー:デヴィッド・アンダーレとイーグルスの初期プロデューサー:グリン・ジョーンズに見い出され、73年末にデビュー。翌年<If You Wanna Got To Heaven>を全米トップ30に送り込み、75年にラリーが中心になって書いた<Jackie Blue>が全米3位。イーグルスの弟分的扱いを受けつつ、よりカントリー寄りでレイド・バックした作品を作っていた。しかしラリーは元々ポップス指向。厳しいツアーとメンバー間の音楽性の違いに疲弊した彼らは、だんだんジリ貧状態に陥り、78年のライヴ盤を最後に改革断行。メンバーを4人に絞って米コロムビアへ移籍し、80年に『OZARK MOUNTAIN DAREDEVILS』をリリースする。そこではラリーがドラムを離れて自らフロントに立ち、全10曲7曲を作曲/共作する健闘ぶりで。しかしバンド内は一枚岩ではなかったようで、ラリーはもっと自分らしい作品を作ろうと、サイドワークとしてソロ・アルバムを制作し始めた。これがAOR名盤『ロンリー・フリーウェイ(MAROONED)』になる。
その内容は、ここで説明する必要もないだろう。多少の好みはあるにしても、「コレを否定するAORファンは、AORファンにあらず」。そう言ってしまって良いくらい、爽快なサウンドを運んでくれる名品だ。鈴木英人のポップなイラストや、軽めの邦題を忌み嫌う人もいるが、当のラリーは容認派。<Don’t Talk>がUSアダルト・コンテンポラリー・チャート19位(全米81位)になるなど、ソロ・デビューとしてはまずまずのリアクションを得て、ラリーも自信を深めたらしい。ただ斜陽のバンドを立て直すほどの実績にはならず、結果ラリーはオザークスを離れてナッシュヴィルへ。そこでソングライター、セッション・ミュージシャン、プロデューサーとして活動を続け、ジミー・バフェットやアラバマ、ジュース・ニュートン、レストレス・ハートといったアーティストに関わり、ポップ・カントリー・フィールドで活躍を続けた。対してオザークスは契約を失くし、細々とノスタルジー・サーキットへ。それでも断続的に活動を続け、90年代末以降、再びラリーも協力するようになっていた。
そんなラリーがナッシュヴィルの音楽仲間と組んだのが、ビートルズのオマージュ・バンドであるヴィニール・キングスである。メンバーにはジム・フォトグロ(g)もいて、最初はビックリしたものだ。アルバムは『A LITTLE TRIP』(02年)と『TIME MACHINE』(06年)という自主制作盤2枚だったが、21年に “ビートルズのDNAを継承するバンド” として突然2in1の日本メジャー盤『ザ・ベスト・オブ・ヴィニール・キングス』が出された。それを機に積極的な活動を再開したようで、昨年『BIG NEW LIFE』をデジタル・リリース。しかもこれが前2作より遊び心に溢れていて、はるかに面白いデキで驚かされた。22年に『LOST SONGS』というラリー・ソロのAOR期デモ音源集があったが、おそらく彼の生前最後のオフィシャル・リリースが、この『BIG NEW LIFE』になるのではないか? こんなコトになるなら、気づいた時にすぐ国内盤発売へ向けて動けばよかった…
Rest in Peace...
《amazon》
《Tower Records はココから》
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その内容は、ここで説明する必要もないだろう。多少の好みはあるにしても、「コレを否定するAORファンは、AORファンにあらず」。そう言ってしまって良いくらい、爽快なサウンドを運んでくれる名品だ。鈴木英人のポップなイラストや、軽めの邦題を忌み嫌う人もいるが、当のラリーは容認派。<Don’t Talk>がUSアダルト・コンテンポラリー・チャート19位(全米81位)になるなど、ソロ・デビューとしてはまずまずのリアクションを得て、ラリーも自信を深めたらしい。ただ斜陽のバンドを立て直すほどの実績にはならず、結果ラリーはオザークスを離れてナッシュヴィルへ。そこでソングライター、セッション・ミュージシャン、プロデューサーとして活動を続け、ジミー・バフェットやアラバマ、ジュース・ニュートン、レストレス・ハートといったアーティストに関わり、ポップ・カントリー・フィールドで活躍を続けた。対してオザークスは契約を失くし、細々とノスタルジー・サーキットへ。それでも断続的に活動を続け、90年代末以降、再びラリーも協力するようになっていた。
そんなラリーがナッシュヴィルの音楽仲間と組んだのが、ビートルズのオマージュ・バンドであるヴィニール・キングスである。メンバーにはジム・フォトグロ(g)もいて、最初はビックリしたものだ。アルバムは『A LITTLE TRIP』(02年)と『TIME MACHINE』(06年)という自主制作盤2枚だったが、21年に “ビートルズのDNAを継承するバンド” として突然2in1の日本メジャー盤『ザ・ベスト・オブ・ヴィニール・キングス』が出された。それを機に積極的な活動を再開したようで、昨年『BIG NEW LIFE』をデジタル・リリース。しかもこれが前2作より遊び心に溢れていて、はるかに面白いデキで驚かされた。22年に『LOST SONGS』というラリー・ソロのAOR期デモ音源集があったが、おそらく彼の生前最後のオフィシャル・リリースが、この『BIG NEW LIFE』になるのではないか? こんなコトになるなら、気づいた時にすぐ国内盤発売へ向けて動けばよかった…

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