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昨日7月15日で、このブログは満21周年を迎えた。このところのシティポップ・ブームの影響だろう、最近はコンスタントに毎月10〜15万ページビューを叩き出している。老舗であるlivedoor blogのカテゴリー【音楽批評・レビュー】では上位3位、【音楽(総合)】でも常にトップ10以内をキープ。これほど多くの音楽ファンの皆さんに読んでいただけるのは、本当に感謝の限り。改めて深く御礼申し上げます。

さて、このブログは、ギャラをもらって原稿を書く商業誌では書けないコトを、音楽ファン、特にAOR好きの皆さんに向けて、できるだけ正直に発信しようと始めたものだ。ただし、個人で運営しているとはいえ、一般音楽ファンの皆さんのブログやSNSみたいに、自由気まま・好き勝手に書き殴っているワケではない。ミュージシャンや業界人の方々にも多数ご覧いただいてるので、そこは自分なりに気を使っている。それでも一般的な音楽専門誌に比べたら、よりストレートで辛口なのは確か。でもそれが、自分の音楽ライターとしての信頼に繋がっていると捉えている。

そもそも自分が愛読していた80年代の音専誌って、広告を取りながらも、ビックリするぐらい辛辣なレビューを載せていた。それが広告への依存度が高くなったのが原因か、ヌルい記事が増え、いつしか褒めることしかしなくなった。そういう音楽メディアへのアンチテーゼをベースに、このブログはスタートしている。

…とはいえ、アーティストが丹精込めて作った作品を、一方的に貶めるような書き方はしていないはずだ。だいたい依頼されて書いているワケではないから、褒められないなら書かなきゃイイだけの話。多少の難点があっても、総体的に広く紹介する価値がある作品だけを選んで掲載しているし、問題作であれば問題作なりに、「筆者はこう聴いた、皆さんはどう聴く?」とリスナー諸氏に問いかけ、まず聴くことを促してきた。

近年はネットやSNSの発達によって、リスナー総評論家時代を迎え、プロの批評家や評論不要論が叫ばれる。でも本当にそうだろうか? 実はこういう情報過多の時代だからこそ、信頼に足る発信者が必要なのではないのか? 確かにレヴェルの低い評論家/ライターが増えているのは問題だけれど。

自分もこの春以降、音楽批評と自分のスタンスについて考えさせられる機会が多かった。しかも、このブログに端を発するチョッとしたトラブルに見舞われたりもした。基本的にそういうことはブログに書かないように心掛けているけれど、一人で抱え込んでモンモンと考え込んでいるのは時間が勿体ないので、21年目を迎えたこの機会にサクッと書いて気持ちを整理し、自分自身で区切りをつけることにした。いつになく長文になるので、この先は興味のある方だけ、お読みください。

まずは、とある音楽専門誌の編集長のボヤキ。SNSで転載されたのを読んだだけで、自分自身は原文を確認していないのだが。
曰く、「最近のポップ界のメジャー・アーティストは、雑誌もウェブも、ほとんどインタビューを受けない」とのこと。その背景には、間違いなく、音楽雑誌が売れなくなったコトがある。でも実際は、ウェブ上でもロング・インタビューは敬遠されるらしい。思うにコレは、インタビューをする側・される側の信頼関係が崩れてきている証左ではないか。最近はアーティストが無駄に増えすぎて、インタビューアー側も情報過多で消化しきれず、個々のアーティストについての知識は薄くなってしまっている。それでいてゴシップ的な話題はネタになるから、いきおい質問が下世話に。アーティストとしては、訊かれたくないことを話す羽目になったり、不意打ちを喰らってドギマギしたりする。だからアーティストはインタビュー嫌いになるのだ。その結果として、自分のウェブサイトやSNSでしか発言しなくなる。でも本当に知見豊かなインタビューアーだと、相手に鋭い質問を浴びせることで、アーティスト自身に何らかの気づきや発見を与えたり、記憶を蘇らせるコトだってある。ダイアローグによって、生み出されるモノがあるのだ。インタビューアーの質の問題はあるにせよ、すべてシャットアウトしてしまっては、メディアとアーティストの良き関係は構築できない。

だいぶ前の話になるが、当時の新進気鋭のシンガー・ソングライターに質問したことがある。
「インタビューを受ける側って、それが何処のメディアか、インタビューアーは誰か?って、どの程度意識しているの?」

「アーティストによると思うけど、音楽に対して真剣な人だったら、意識せずに居られませんね。芸能界寄りのメディアならそういう軽い返事になるし、濃い目の音専誌なら真剣に考えて答える。新聞系だったら文化っぽい返答を意識しますしね。例えば、“この曲はスティーリー・ダンを意識しました” と言ったところで、“それ誰?” という記者さんもいれば、“AJA? GAUCHO? それとも初期?” と返してくる方もいる。だから自ずと返事の仕方は変わります。本当はイケないことだろうけど、こちらも何処のメディアか、誰が取材に来るのかは、意識せざるを得ない。もし相手が金澤さんなら、良い意味で緊張しますよ」

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それから少し経って、以下の記事を読んだ。
ベテラン俳優の寺尾聰が、新聞の対面取材の冒頭で、記者にテープレコーダーを止めさせた、という記事である。我々取材側にとって、今やテープレコーダーは必需品だ。それを止めろ!とは、どういうことか。
詳しくは、この記者の後日談を読んでほしい。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202506130000428.html?Page=1

読めばわかるが、寺尾は全ての対面インタビュー記者にそれを言ったワケではない。中身の薄い取材が続いて嫌気が差してきたのか、あるいは適当な記者がいたら投げかけてみようと考えていたか? でもそこはベテランの寺尾のこと、この記者を見て、その風貌から経験やキャリアを察し、「コイツなら…」と直感を働かせたに違いない。その本心は、ココだ。
「あなたの言葉で、書いて欲しいと言っているんだ。記者として、どう感じたかを書けば良い」
正確なQ&Aの再現よりも、記者の正直な感想を求めたのだ。
当然、厳しい意見を真っ直ぐに受け入れるための心の準備もできていたはずである。

寺尾はこうも言っている。
「俺の言葉を書き起こされると、つまんないんだよ。この役者が、こうだった、というのが反映されていない気がする。(中略)ほとんどが映画のちらしに書いてあることをまとめたような、つまんない原稿。だったら、ちらしでいいじゃないか?」

これは最近の音専誌や音楽系ウェブも同じだ。Q&Aや短いレビュー原稿しか書けないライターが増えた、というのは、もう10〜15年以上前から親しい音楽編集者に聞かされていたが、批評のような長文を乗せる紙媒体が衰退してウェブ中心になってから、その傾向に拍車がかかった。用意された資料からしか原稿が書けないエセ・ライターや提灯持ちが増えた。寺尾はそういう近年のメディアに刃を剥いたのだ。記事の最後に書かれた、寺尾から記者への私信にあった言葉が、まさに自分にも強く刺さった。
「メディアとして、まっとうに生きることを、諦めるな」

今までにも時々ブログに書いてきたけれど、自分は「音楽評論家」とは名乗らず、「音楽ライター」として通している。それは自分が立つべきポジションとして、まずは一人の音楽ファンでありたいと思っているから。でもその一方で、プロの書き手としては「評論家」としての俯瞰した目線を保とうとしている。
つまり、できるだけ客観的な視線で、一般音楽ファンから参考にされるような文章を書きたいのだ。“論評できない” “評論が書けない” から 音楽評論家ではなく音楽ライター、ではない。それは大卒後に15年近く一般サラリーマンを経験してから音楽ライターに転じた変わり種としての、自分の矜持でもある。音楽業界以外は知らない・経験がない、そういう方々では書けない・見えないモノがあると思っている。

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さて、こういう記事に過敏に反応してしまうようになったのは、こんなトラブルがあったからだ。4月上旬のこと、懇意にしている編集者から、こんな連絡があった。
「今度〇〇〇〇さんのニュー・アルバムが出ます。それでウチでも特集を組むことになったので、ぜひ金澤さんにも書いて欲しいんですが…」
依頼されたのは、特集の骨格部分を成す10000W超の長文と、レビュー用として、〇〇に影響を与えた邦洋楽作品のピックアップ。両方合わせて、筆者の年収1〜2%に相当するギャラの提示があった。しがない音楽ライターにとっては、充分過ぎるほど大きな仕事だ。

だがその数日後、構想を練り始めたタイミングで、再度編集者から連絡が入った。
「〇〇さんからチェックが入って、金澤さんを外せ!と言われちゃいまして…」
何と編集サイドに圧力が掛かったのだ。それが半強制だったのか、もっと穏やかなお願いだったのか、そのあたりは分からないけれど。

ただ実のところ、自分には寝耳に水、のコトではなかった。ここ1〜2年、自分がブログに書いた彼への厳しい意見に対して、当人がSNSやファンサイトで反論を書いているのは知っていた。だから、自分の執筆参加を快く思わないことは予想できた。きっと入稿後の事務所チェックは厳しいものになるだろう、それは覚悟していた。

ところが、まさか、外せ!と言ってくるとは! そうしたエゲツない、高圧的な方法に出てきたことに、心底驚いた。そこまでやるか…!? 令和のこの時代に、まるで昭和のヤクザな芸能事務所みたいじゃないか…。

でもコレって、もし自分が怒って、然るべき所に駆け込んだり相談したりすれば、最近よく問題になっているコンプライアンス違反とか、昨年制定されたフリーランス法に抵触しかねない案件になるはず。元より、“言論の自由” にも関わってきそうだ。

でもそこは一瞬だけ考えて、オトナの対応で、静かに身を引くことにした。何もケンカしたいワケじゃないし、何より編集者や周囲の関係者に迷惑をかけることは絶対に避けたかった。そもそもブログで手厳しいポストを書いたのも、最近の〇〇の活動スタンスにブレが目立ってきたと思っているから。
ファンの間でも意見は大きく二分されていて、自分に賛同してくれる方も多い。残念なことに、当の〇〇には、筆者の行為が承認欲求とか自己宣伝としか写っていないようだけれど…。でもそう見えてしまうのは、彼の目が人気取りばかりに行っていて、すっかり曇ってしまったからだろう。音楽に対してピュアだった彼は、何処へ行ってしまったのか…? そして、自分の気に入らないコトを言うライターを排除する暴挙。寺尾さんと〇〇、表現者としての意識の高さが全然違うのは、一目瞭然だろう。

世間を大きく二分し、自分に従順な勢力を褒め称え、持ち上げて優遇する。モノ言う勢力は遠ざけ、中傷し、自分の領域から除外する。彼の手法は、嫌われ者の某国大統領にソックリだ。

「最近、人が変わったみたい」「精神的に病んじゃってる」「もう私は仕事として割り切って付き合ってます」
これは今年に入って、彼の周辺から漏れ伝わってきた言葉の数々。あーぁ、もう人心 離れ始めちゃっているようですねぇ…

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でも、ちゃんと見てくれている人だっているんだな、と勇気づけられる出来事が5月に。とある教育関係の大手出版企業から、かつて某所に寄稿したコラム原稿の二次使用を許可してほしい旨、連絡が入ったのだ。以前、有名な英会話学校の生徒向け機関紙に音楽コラムを書き下ろしたことはあるが、2〜3年前に寄稿した文章がそのまま教材に使われる、というのは初めての経験だ。

聞けば大学受験用の、国語の模擬試験の出題に使われるらしい。自分の時代、この手は小説とか文芸書、新聞から出題されると相場が決まっていた。それが今では、学生が興味を持ちやすい素材を探して出題し、読解力の深さを調べるらしい。実際、許諾を求められたのも、アナログ・レコード復権を書いたコラム記事だった。

寄稿先の許可も必要なので、現時点では実際に使用されるかどうかは分からない。けれど、こういう教材に使われるのは、文章として優れているのが認められたからこそ。文法が正しいのは当然のこと、文章構成や表現力、そして内容自体が正しく、品位がなければならならない。そういうところに流用されるというのは、物書きとしてすごく自信になった。

ちなみに、圧力によって外されてしまった所でも、すぐに後続特集に執筆参加。自分は自分の信じるスタンスで、勇気と信念を持って音楽レビューを書き続けていこうと、思いを新たにした。
皆さまにおかれましては、是非とも引き続きの応援をお願い申し上げます。