
スティーヴ・ルカサーとマイケル・ランドウ率いるBoone's Firmのライヴを観ていて、ちょっと思い浮かべていたのが、このジョニ・ミッチェルの82年作。彼女の歴史の中では、アサイラムからゲフィンに移籍してロックに寄ったアルバムという評価が一般的で、結構地味な印象がある一枚だ。確かにスタジオ前作が『MINGUS』、直近が名ライヴ盤とされる『SHADOWS AND LIGHT』だから、コレだとロックに寄った感じはある。でもそれはあくまでジョニのキャリアに照らせば、の話。もともとそっち系のリスナーだった自分から見れば、充分すぎるほどジャズ寄りの作品ではあるのだが…。
ただしサウンドメイクは一気に80'sっぽくなって、楽器のトーンやリヴァーヴの使い方がエラく新しくなった感じがある。ベースはジョニと恋仲になり、やがてプロデューサーとして注目されるようになるラリー・クライン。彼のベースのフィーチャー度がメチャメチャ高くて、当時は「もしかしてジャコ(パストリアス)よりスゴくね!?」なんて思ってた。若きヴィニー・カリウタもイイ仕事しているし。
で、このアルバムでビックリするようなギターを弾いていたのが、実はランドウで。アルバムに参加しているギタリストは、ランドウとルークが各4曲ずつで、ラリー・カールトンも1曲。実際彼らのギターがギンギンに出てくる曲がいくつかあって、それがジョニのロック化の象徴にもなっている。だけど、そこは当然ジョニ。ルークやランドウにロッキンなギター・ソロを取らせるのではなく、あくまでバッキングで面白いコトを演らせようとした結果と思われ…。だから、きっとジョニとクラインの意図なのだろう、両人共に、空きスペースにザクザク斬り込んでいくようなベクトルのプレイを展開している。その時に、どうも運動不足気味に感じてしまうのがルーク、逆に 水を得た魚のように振舞っているのがランドウ、という印象だ。
確かにタイトル曲ではルークらしい暴れっぷりが楽しめる。けれどこれは、楽曲の方がルークのスタイルに寄せてきた感じ。ランドウの方は、まだマクサスで売り出したばかりで、TOTO中心にいろいろ忙しくなってきたルークのフォロワーとして頭角を現してきた、そんな時期だった。なので、ルークより上手くハマって存在感を発揮するランドウに対し、「こんなプレイをするのか!」と驚き、「これからはこの人押しかも」と思った記憶がある。直情的なルークと違って、アドリブ・ソロを与えられなくても自己主張できる、沈着冷静で計算されたプレイ、それがランドウの持ち味。Boone's Firmのステージを観ていても、そういうスタイルの違いはハッキリ表れていた。
ランドウ自身がこのジョニのアルバムをどう捉えているか、それは知らない。けれど自分がランドウの空間プレイを初めて意識したのがこのアルバムで。彼のワークスに照らしても、これ以前にこうしたスタイルで弾いているアルバムは見当たらない。対してジョニはこれ以降、自分の作品にランドウを重用していく。つまり、彼がポスト・ルークを脱して独創的なプレイスタイルを築いていく契機が、このアルバムだったのかも…。もしそうなら、これまで言われてきた以上に重要な作品として、このアルバムを再定義するべきなのかも。
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で、このアルバムでビックリするようなギターを弾いていたのが、実はランドウで。アルバムに参加しているギタリストは、ランドウとルークが各4曲ずつで、ラリー・カールトンも1曲。実際彼らのギターがギンギンに出てくる曲がいくつかあって、それがジョニのロック化の象徴にもなっている。だけど、そこは当然ジョニ。ルークやランドウにロッキンなギター・ソロを取らせるのではなく、あくまでバッキングで面白いコトを演らせようとした結果と思われ…。だから、きっとジョニとクラインの意図なのだろう、両人共に、空きスペースにザクザク斬り込んでいくようなベクトルのプレイを展開している。その時に、どうも運動不足気味に感じてしまうのがルーク、逆に 水を得た魚のように振舞っているのがランドウ、という印象だ。
確かにタイトル曲ではルークらしい暴れっぷりが楽しめる。けれどこれは、楽曲の方がルークのスタイルに寄せてきた感じ。ランドウの方は、まだマクサスで売り出したばかりで、TOTO中心にいろいろ忙しくなってきたルークのフォロワーとして頭角を現してきた、そんな時期だった。なので、ルークより上手くハマって存在感を発揮するランドウに対し、「こんなプレイをするのか!」と驚き、「これからはこの人押しかも」と思った記憶がある。直情的なルークと違って、アドリブ・ソロを与えられなくても自己主張できる、沈着冷静で計算されたプレイ、それがランドウの持ち味。Boone's Firmのステージを観ていても、そういうスタイルの違いはハッキリ表れていた。
ランドウ自身がこのジョニのアルバムをどう捉えているか、それは知らない。けれど自分がランドウの空間プレイを初めて意識したのがこのアルバムで。彼のワークスに照らしても、これ以前にこうしたスタイルで弾いているアルバムは見当たらない。対してジョニはこれ以降、自分の作品にランドウを重用していく。つまり、彼がポスト・ルークを脱して独創的なプレイスタイルを築いていく契機が、このアルバムだったのかも…。もしそうなら、これまで言われてきた以上に重要な作品として、このアルバムを再定義するべきなのかも。
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