








79年代〜80年代初め、主に米スワンプ・ロック・シーンで活躍したセッション・ギタリストのウェイン・パーキンスが、3月16日に急逝した。ゼロ年代半ばから激しい頭痛に悩まされ、多発性脳腫瘍と診断。そのまま現役引退して治療に専念していたものの、この3月初めに脳卒中を起こし、16日に亡くなったという。享年74。
デヴィッド・ウェイン・パーキンスは1951年、アラバマ州バーミングハム生まれ。15歳の時に地元でセッション活動を始め、17歳でマッスル・ショールズへ。クイン・アイヴィーのスタジオでギタリストとして働き始め、現地トップ・ミュージシャンが集まるマッスル・ショールズ・スタジオにも出入りするようになった。その頃、ザ・ソウル・チルドレンやロニー・ミルサップ、ジョー・コッカー、レオン・ラッセル、ジミー・クリフ、スティーヴ・ウィンウッド、ジム・キャパルディらとセッションしたという。
その頃に親しくなったのが、デビュー前のレーナード・スキナード。マッスル・ショールズでデモ録音していた彼らを助け、レコーディングにも参加。ヴォーカルのロニー・ヴァン・ザントから加入を要請されるほど意気投合したらしい。その時の録音は、後年発掘されて作品化されている。
72年にスティーヴ・スミス (kyd,vo)、ティム・スミス (piano,g,vo) と共に、スミス・パーキンス・スミスを結成し、アイランドからアルバム発表。リズム隊にはマッスル・ショールズ・リズム・セクションのロジャー・ホーキンス(ds) 、デヴィッド・フッド(b)、バリー・ベケット(kyd) らがサポートに付いた。英国拠点のアイランドでは初のUSグループで、フリーやフェアポート・コンヴェンション、ユーライア・ヒープ、ファミリー、ロバート・パーマーがいるヴィネガー・ジョーらと英国ツアーに勤しんでいる。
スミス・パーキンス・スミスの2作目に取り組もうとしていた頃、アイランドの社長クリス・ブラックウェルに頼まれ、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『CATCH THE FIRE』(73年)に参加し、3曲にリード・ギターをダビング。しかしウェインの名がクレジットされたのは、随分後になってのことだ。それでもこの前後から、ドン・ニックスやJ.D.サウザー、エヴァリー・ブラザーズなど仕事が増加。ジョニ・ミチェルからも声が掛かかり、レオン・ラッセルからはツアー・バンドに起用され、共に来日。その模様は『LIVE IN JAPAN』として作品化されている。当時のレオンのバンドは、ベースにカール・レイドル、キーボードにパトリック・ヘンダーソン。
そのあたりの縁から親しくなったエリック・クラプトンが、ミック・テイラーの後任を探していたローリング・ストーンズにウェインを推薦。彼らは『BLACK AND BLUE』(76年)を制作しながら、実質的なオーディションを兼ねて、いろいろなギタリストをセッションに呼んでいた。かくしてウェインは、<Hand of Fate><Memory Motel><Fool to Cry>の3曲でプレイ。一度お蔵入りした<Worried About You>は、81年作『TATOO YOU』で日の目を見ている。ウェインはストーンズのメンバーに気に入られ、加入のオファーが出る寸前までいったそうだ。
ところがセッション終盤に、フェイセズが宙ぶらりんになっていたロニー・ウッドが参戦。同じ英国人ミュージシャン同士、メンバーたちとも旧知の間柄で、キースとは特に親しかったロニーだから、そのままストーンズの75年ツアーにゲスト扱いで参加。フェイセズ解散を待って正式メンバーとなリ、ウェインの参加は幻に終わった。しかし、一般的にはほとんど無名の存在だったウェインが、この一件で大いに知名度を上げたのは確か。かく言う自分も、この時初めてウェインの存在を知ったクチだ。
アラバマに戻ったウェインは、78年に弟デイル (ds) を含む5人組クリムゾン・タイドとしてデビュー。キャピトルで2枚のアルバムを発表するも、成功には至っていない。80年代に入ってからはセッション活動を再開し、ドクター・フックやマッギン=ヒルマン、グレン・フライ、レヴォン・ヘルム、スティーヴ・クロッパー、デルバート・マクリントン、レニー・ルブラン、ヴァン・スティーヴンソン、フランキー・ミラー、アル・グリーンなどのアルバムに参加し、渋い職人プレイを聴かせた。90年代、ゼロ年代には、インディ発信のソロ作もある。もっともこれらは自分も未チェックだけれど…
このように、表舞台に出る大きなチャンスをモノにできなかった不運の名手ではある。でも今回、その訃報に接していて、ストーンズとかレーナードとかとの仕事ばかりで語られてしまうのは、何だかなぁ…と。スミス・パーキンス・スミスもクリムゾン・タイドも、今ではマニアしか知らないバンドだけど、レオン・ラッセルとその周辺(ボビー・ウーマックやギャップ・バンドとかの仕事はココに端を発する)との関わりなど、もう少し触れられても良いのでは…? 自分なんて、レオンとカール・レイドルに挟まれて新幹線のホームを歩く写真など見ると、グッ
ときてしまうんだけどな。
Rest in Peace...
その頃に親しくなったのが、デビュー前のレーナード・スキナード。マッスル・ショールズでデモ録音していた彼らを助け、レコーディングにも参加。ヴォーカルのロニー・ヴァン・ザントから加入を要請されるほど意気投合したらしい。その時の録音は、後年発掘されて作品化されている。
72年にスティーヴ・スミス (kyd,vo)、ティム・スミス (piano,g,vo) と共に、スミス・パーキンス・スミスを結成し、アイランドからアルバム発表。リズム隊にはマッスル・ショールズ・リズム・セクションのロジャー・ホーキンス(ds) 、デヴィッド・フッド(b)、バリー・ベケット(kyd) らがサポートに付いた。英国拠点のアイランドでは初のUSグループで、フリーやフェアポート・コンヴェンション、ユーライア・ヒープ、ファミリー、ロバート・パーマーがいるヴィネガー・ジョーらと英国ツアーに勤しんでいる。
スミス・パーキンス・スミスの2作目に取り組もうとしていた頃、アイランドの社長クリス・ブラックウェルに頼まれ、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『CATCH THE FIRE』(73年)に参加し、3曲にリード・ギターをダビング。しかしウェインの名がクレジットされたのは、随分後になってのことだ。それでもこの前後から、ドン・ニックスやJ.D.サウザー、エヴァリー・ブラザーズなど仕事が増加。ジョニ・ミチェルからも声が掛かかり、レオン・ラッセルからはツアー・バンドに起用され、共に来日。その模様は『LIVE IN JAPAN』として作品化されている。当時のレオンのバンドは、ベースにカール・レイドル、キーボードにパトリック・ヘンダーソン。
そのあたりの縁から親しくなったエリック・クラプトンが、ミック・テイラーの後任を探していたローリング・ストーンズにウェインを推薦。彼らは『BLACK AND BLUE』(76年)を制作しながら、実質的なオーディションを兼ねて、いろいろなギタリストをセッションに呼んでいた。かくしてウェインは、<Hand of Fate><Memory Motel><Fool to Cry>の3曲でプレイ。一度お蔵入りした<Worried About You>は、81年作『TATOO YOU』で日の目を見ている。ウェインはストーンズのメンバーに気に入られ、加入のオファーが出る寸前までいったそうだ。
ところがセッション終盤に、フェイセズが宙ぶらりんになっていたロニー・ウッドが参戦。同じ英国人ミュージシャン同士、メンバーたちとも旧知の間柄で、キースとは特に親しかったロニーだから、そのままストーンズの75年ツアーにゲスト扱いで参加。フェイセズ解散を待って正式メンバーとなリ、ウェインの参加は幻に終わった。しかし、一般的にはほとんど無名の存在だったウェインが、この一件で大いに知名度を上げたのは確か。かく言う自分も、この時初めてウェインの存在を知ったクチだ。
アラバマに戻ったウェインは、78年に弟デイル (ds) を含む5人組クリムゾン・タイドとしてデビュー。キャピトルで2枚のアルバムを発表するも、成功には至っていない。80年代に入ってからはセッション活動を再開し、ドクター・フックやマッギン=ヒルマン、グレン・フライ、レヴォン・ヘルム、スティーヴ・クロッパー、デルバート・マクリントン、レニー・ルブラン、ヴァン・スティーヴンソン、フランキー・ミラー、アル・グリーンなどのアルバムに参加し、渋い職人プレイを聴かせた。90年代、ゼロ年代には、インディ発信のソロ作もある。もっともこれらは自分も未チェックだけれど…

このように、表舞台に出る大きなチャンスをモノにできなかった不運の名手ではある。でも今回、その訃報に接していて、ストーンズとかレーナードとかとの仕事ばかりで語られてしまうのは、何だかなぁ…と。スミス・パーキンス・スミスもクリムゾン・タイドも、今ではマニアしか知らないバンドだけど、レオン・ラッセルとその周辺(ボビー・ウーマックやギャップ・バンドとかの仕事はココに端を発する)との関わりなど、もう少し触れられても良いのでは…? 自分なんて、レオンとカール・レイドルに挟まれて新幹線のホームを歩く写真など見ると、グッ
ときてしまうんだけどな。Rest in Peace...
































