



80年代にキャピトルから4枚のアルバムを出し、その後はゴスペル・シーンに転じて長く歌い続けていたグレイト・シンガー:ボー・ウィリアムスが、17日、ミシシッピ州テュペロの自宅で亡くなった。ここしばらくガンと闘っていたという。享年76。
ボーは1950年、テキサスはヒューストン生まれ。父親が牧師だったため、兄弟姉妹と一緒に自然にゴスペルに親しんだ。70年代に入り、“ボボ・ミスター・ソウル”という名前で地元インディ・デビュー。2〜3枚のシングルを出し、好事家の間で評判を取っている。
その後デニス・エドワーズの後任を探していたテンプテーションズが、セッションやコーラス・シンガーとして活動していたボーに注目。オーディションを受けるべくL.A.に赴いた。ところが身長が足らず、加入はお預け。 失意のボーはヒューストンへ戻り、兄弟を伴って再びL.A.へ。そこでソーラー・ヒートを結成し、クラブ回りを開始する。そしてそれが評判になると、今度はルイス・プライスの後釜を探していたテンプスが、再びアプローチを仕掛けてきた。でもソーラー・ヒートは、ABCからのデビューを準備中。ボーはテンプスの誘いを蹴ることになる。でも彼らのアルバムが出るや否や、今度はABCが立ちいかなくなり、バンド解散。それでもL.A.のクラブで歌っているところをジョージ・ベンソンに見初められ、82年にCapitolからセルフ・タイトル作でデビュー。以後『STAY WITH ME』『BODACIOUS!』『NO MORE TEARS』と4作を発表している。
もう一人、ソロ・デビュー前のボーに注目したのは、ジャズ・ドラマーのノーマン・コナーズ。この頃コナーズは、クインシー・ジョーンズに倣ってプロデュースやアレンジで手腕を発揮。ジーン・カーン、フィリス・ハイマン、グレン・ジョーンズ、後にチェンジに加入するジェームス・ロビンソンらを続々発掘し、かのマイルス・デイヴィスのベース:マイケル・ヘンダーソンをヴォーカルに起用して高く評価されていた。そのコナーズがボーを81年作『MR.C』のリード・シンガーに抜擢したのだ。ただし、ボーにシンガーとしてのクレジットはなく、スペシャル・サンクスに連なるだけ。これはどうも契約交渉中だったキャピトルへの配慮からだと思われる。もしデビューが決まっていたら、当然売り出しのネタになっていたはずだから。
キャピトルでの4作中3作は、L.A.を拠点にしたアルバムで、その中では筆者監修で再発したこともある83年の2nd『STAY WITH ME』が良い出来。アル・グリーンの定番曲<Love And Happiness>、サム・ディーズ提供でテンプスが参加している<I've Been>を筆頭に、素晴らしい喉を聴かせてくれる。パトリース・ラッシェン、ジェフリー・オズボーンの参加もあり、よく見ればベンソンの名前も。セールスは伸びなかったが、これで知名度アップ。自分もコレで初めてボーを聴いた記憶がある。だが、次の『BODACIOUS!』では、ロビー・ネヴィル<C'est La Vie>を本人よりずっと早く歌っていたのに、アレンジがイマイチで、アルバムも不発。打ち込み多めで、時代の音に寄り添いすぎた。
そこで心機一転ニューヨークへ移り、ハッシュ・プロダクション入り。クワイエット・ストーム路線の『NO MORE TEARS』を出した。これはなかなかの力作で、キャリア最大のR&Bヒット<There's Just Something About You>がココから出ている。でも期待したほどの成果は残せず終いで…。しばらく鳴りを潜めたと思ったら、89年にゴスペル名門 Light から『WONDERFUL』をリリース。ようやく居場所を見つけたか、その後も『HIGHER』『LOVE』とコンスタントにリリースを続けていった。
ボーのようなゴスペル仕込みの実力派がメジャー・シーンで長く活躍できないのは、今も昔も同じこと。でもボーのキャリアを追ってみると、人一倍大きくミュージック・ビジネスに翻弄されたと感じる。こういうシンガーたちが存在していたことは、決して忘れたくないものだ。
Rest in Peace...
その後デニス・エドワーズの後任を探していたテンプテーションズが、セッションやコーラス・シンガーとして活動していたボーに注目。オーディションを受けるべくL.A.に赴いた。ところが身長が足らず、加入はお預け。 失意のボーはヒューストンへ戻り、兄弟を伴って再びL.A.へ。そこでソーラー・ヒートを結成し、クラブ回りを開始する。そしてそれが評判になると、今度はルイス・プライスの後釜を探していたテンプスが、再びアプローチを仕掛けてきた。でもソーラー・ヒートは、ABCからのデビューを準備中。ボーはテンプスの誘いを蹴ることになる。でも彼らのアルバムが出るや否や、今度はABCが立ちいかなくなり、バンド解散。それでもL.A.のクラブで歌っているところをジョージ・ベンソンに見初められ、82年にCapitolからセルフ・タイトル作でデビュー。以後『STAY WITH ME』『BODACIOUS!』『NO MORE TEARS』と4作を発表している。
もう一人、ソロ・デビュー前のボーに注目したのは、ジャズ・ドラマーのノーマン・コナーズ。この頃コナーズは、クインシー・ジョーンズに倣ってプロデュースやアレンジで手腕を発揮。ジーン・カーン、フィリス・ハイマン、グレン・ジョーンズ、後にチェンジに加入するジェームス・ロビンソンらを続々発掘し、かのマイルス・デイヴィスのベース:マイケル・ヘンダーソンをヴォーカルに起用して高く評価されていた。そのコナーズがボーを81年作『MR.C』のリード・シンガーに抜擢したのだ。ただし、ボーにシンガーとしてのクレジットはなく、スペシャル・サンクスに連なるだけ。これはどうも契約交渉中だったキャピトルへの配慮からだと思われる。もしデビューが決まっていたら、当然売り出しのネタになっていたはずだから。
キャピトルでの4作中3作は、L.A.を拠点にしたアルバムで、その中では筆者監修で再発したこともある83年の2nd『STAY WITH ME』が良い出来。アル・グリーンの定番曲<Love And Happiness>、サム・ディーズ提供でテンプスが参加している<I've Been>を筆頭に、素晴らしい喉を聴かせてくれる。パトリース・ラッシェン、ジェフリー・オズボーンの参加もあり、よく見ればベンソンの名前も。セールスは伸びなかったが、これで知名度アップ。自分もコレで初めてボーを聴いた記憶がある。だが、次の『BODACIOUS!』では、ロビー・ネヴィル<C'est La Vie>を本人よりずっと早く歌っていたのに、アレンジがイマイチで、アルバムも不発。打ち込み多めで、時代の音に寄り添いすぎた。
そこで心機一転ニューヨークへ移り、ハッシュ・プロダクション入り。クワイエット・ストーム路線の『NO MORE TEARS』を出した。これはなかなかの力作で、キャリア最大のR&Bヒット<There's Just Something About You>がココから出ている。でも期待したほどの成果は残せず終いで…。しばらく鳴りを潜めたと思ったら、89年にゴスペル名門 Light から『WONDERFUL』をリリース。ようやく居場所を見つけたか、その後も『HIGHER』『LOVE』とコンスタントにリリースを続けていった。
ボーのようなゴスペル仕込みの実力派がメジャー・シーンで長く活躍できないのは、今も昔も同じこと。でもボーのキャリアを追ってみると、人一倍大きくミュージック・ビジネスに翻弄されたと感じる。こういうシンガーたちが存在していたことは、決して忘れたくないものだ。
Rest in Peace...








































