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音楽シーンを上げてのドリー・パートン追悼ムードの陰で、このシンガーもひっそりと旅立ちを迎えた。ジャズ・シンガーにして女優、人気TV番組のコメンテイターとしても活躍したジェイ・P・モーガンが、8月24日、ワシントン州キャッスル・ロックで死去。享年94。自然死だったという。元々はお色気系ジャズ・シンガーとして50~60年代に人気になった人だけれど、当ブログのお客様には、デヴィッド・フォスターが76年に初めてアルバムをフル・プロデュースしたお相手、として知られているか。でもそのインディ盤(実質的な自主制作)の存在が明らかにされたのは90年代半ば、初CDはゼロ年代に入ってのコトだった。

ジェイ・P・ことメアリー・マーガレット・モーガンは、1931年12月コロラドのメサベルデ国立公園に近い街マンコスの生まれ。ハイスクールの頃、家族でカリフォルニアへ移住。新たに通うL.A.の高校のクラスで会計係に任命され、銀行家J・P・モルガンにちなんで「ジェイ・P」というニックネームを授かった。レコード・デビューは53年。翌54年〜55年からABC-TVの音楽番組にレギュラー出演し、それを機に多くのヒット曲を飛ばすようになった。70年代頃からはナイト・クラブへの出演がメイン・ワークとなったが、76〜78年にはゴング・ショウのパネリストを務めているので、もしかしたら、シェリル・リンがコンペティションを勝ち抜いていた頃、それを見守っていた一人が彼女だったのかもしれない。

デヴィッド・フォスターが彼女のアルバムをプロデュースすることになったのは、カナダからL.A.にやってきたフォスターがハリウッド界隈のスタジオ・セッション・シーンで売れっ子になってきた頃。自らのステップ・アップを目論んでいたものの、なかなかプロデュースを任せてくれるアーティストに出会えずにいたところ、ヴァン・ナイズのスタジオで知り合った人物がフォスターの才能を高く評価し、親交のあるジェイ・P.を紹介してくれた。フォスター自伝によれば、制作費は $5,000。セッションマンを続けた方が遥かに身入りが良かったが、フォスターはココが勝負どころと踏んで、付き合いのあるセッション・ミュージシャンを集め、約半年間、全身全霊を傾けて『JAYE P. MORGAN』を完成させた。ジェイ・P.自身もアルバムの出来に満足していたという。

後年の再評価通り、このアルバムは素晴らしい内容のシティ・ソウル・アルバムに仕上がった。が、メジャーからリリースされることはなく、ごく少数プレスされただけで終了。彼女自身も表立った活動はなかったらしく、次作は83年の『LATELY!』まで待たされる。でもコレも実質自主制作。スポンサーが出てくればアルバムを作る、といった状況だったようだ。それでもTVショウにゲスト出演する機会は多く、80年代〜90年代初頭にかけては再び映画界でも活躍したという。

Rest in Peace...

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